君は世界一うまいナポリタンを食べたことがあるだろうか。
「食」に対する考え方というものは十人十色でその料理に対する「世界一」「ナンバーワン」はそれぞれ異なるだろう。
しかし、俺はここに断言する。北海道札幌市厚別区の新札幌駅にある喫茶店『駅馬車』のナポリタンこそが世界一だと。
俺がこの店と出会ったのは先日、用をすませ帰路に着こうとしたが外はあいにくの雨。
雨宿りがてらどこか適当な場所で昼食を取ろうと付近を徘徊しているときだった。おどろおどろしい雰囲気と共に看板に書かれた店名『駅馬車』の文字。言い知れぬそのオーラに俺の足は自然にその店へと向かっていた。いかにも老舗の喫茶店と言った店構えなので俺は物怖じしてしまい、何度も「この店に入ってはいけない」と必死に抗った。しかし、俺の両の足は歩みを止めない、いや止められないと言ったほうが正しいかもしれない。まるで吸い込まれるかのように店内へと入る。
「うっ」
なんだ。なんだこの匂いは。鼻から脳天に突き刺すような匂いが俺を襲った。食欲を刺激するトマトソースの香りだった。
「お、お客さん?」
「はっ」
気が付くと俺はだらしなく口からよだれを垂らしていた。「食欲」という化物によって理性が吹き飛んだ瞬間だった。慌てて口をハンケチーフで拭う。
「こちらの席へどうぞ」
窓際の席へ案内された俺は店内を見渡した。そこには異常とも言える光景が広がっていた。老若男女、そこに存在するほぼ全ての人間がナポリタンを注文している。脇目もふらずに目の前のナポリタンを貪るかのごとく食しているのだ。食べたい、俺も早く食べたい。もしこのナポリタンを食べられるのであれば俺は金塊をも積む覚悟だった。だが、俺の目に飛び込んできたものは、その光景からはおよそ想像のつかないものだった。
「ナポリタン 650円 スープ・サラダ付き」
う、嘘だ。思わず目を擦り夢ではないことを確かめた。そう、これは紛れもなく現実で起こっていることなのだ。この人の理性を失わせ、狂わす、まさに「悪魔」と形容してもなんら可笑しくはないあのナポリタンがたったの650円、しかも、スープにサラダまで付いているだなんて。
目の前で起きている状況に戸惑いを隠せないまま、俺は店員を呼んだ。さぁ、言うんだ。ナポリタン一つと。落ち着け、落ち着くんだ、ナポリタンは逃げやしない。フゥー、フゥー、フゥー、フゥー。な、ナ、
「ホットコーヒーひとつ」
ああ、やってしまった。馬鹿だ。俺は馬鹿だ。目標を目の前にするといつも怖気づいてしまう。自分にはまだナポリタンは早いと、まだナポリタンを食べられるような人間ではないと、そう萎縮してしまう。
しかし、まだチャンスは残されている。そう、いわばホットコーヒーはジャブだ。山登りでもそうだろう、一合目からじっくりと味わうのが男の流儀だろう。
「お待たせいたしました」
やってきたホットコーヒーをすする。うん、うまい。芳醇な豆の香りがこの喧騒にまみれた街から俺を解放してくれる。ほっと胸を撫で下ろす午後のひととき。そうだ、ここは喫茶店だ。決してスパゲティ屋ではない。このコーヒーこそが「喫茶店馬車道」が「喫茶店馬車道」たる所以なのだろう。ナポリタンなんて注文しなくてもいいじゃないか。徐々に落ち着きを取り戻す。すると、俺の向かいの席に一人の男が腰を掛けた。
「ナポリタンひとつ」
く、く、くそがぁ〜〜〜〜〜!!!!
思わずその男を睨みつけ、わなわなと身を震わせる。ヘリコプターで山頂へ登るようなその傍若無人な行いを許すわけにはいかない。思わず店員を呼び止めこう告げる。
「ナポリタンひとつ」
貴様だけに良い思いはさせない、先にナポリタンをいただくのはこの俺だ。
そこから先は気が気ではなかった。当然だ、いわばこれは俺と男とのサバイバルレース。どちらがよりナポリタンを堪能できるかの人生をかけた勝負なのだ。余裕な表情を見せながら新聞に目をやる男。わかっている、この男も内心では早く食べたくて焦っている。俺には貴様の気持ちが手に取るようにわかるぞ。
「おまたせしました、ナポリタンです」
店員の声にハッと顔をあげると向かいの席にナポリタンを運んでいた。それもそのはず、男のほうが先にナポリタンを注文したのだ。むしろ、客に優劣を付けない素晴らしいサービス精神の喫茶店だと称賛すべきだろう。程なくして、また店員の声が聞こえた。ついに俺のテーブルにも夢の欠片が。
「おまたせしました、ナポリタンです」
お、おお…オオオオオ…。
俺はただ、ただ狼狽した。アツアツの鉄板の上に乗っていたのは例えるならルビーの宝石。燃え盛るような赤。ジュワジュワと音を立てこちらを手招きしている。
俺は普段、食べ物の写真など撮ることはないがこのナポリタンには思わずレンズを向けていた。もし写真に収めずに明日俺が死んでこのナポリタンを食べた足跡を残せなかったならそれはこの上なく不幸なことだと思ったからだ。カメラを持つ手が震える。
駄目だ。もう、我慢できない。すぐさまフォークを手に取りスパゲティを巻きつける。フォークの金属に反射され、真紅の麺はキラキラと輝いている。俺はいま世界を巻きつけていると言っても過言ではない。
「パクッ」
ズキュゥゥゥン!!
思わず自分の胸を抑えた。ピストルで心臓を撃ち抜かれたような衝撃が俺を襲ったからだ。なんだ、なんなんだこれは。
「パクッ」
ズキュゥゥゥン!!
「パクッ」
ズキュゥゥゥン!!
「パクッ」
ズキュゥゥゥン!!
一口、また一口とスパゲティを口に運ぶたびに衝撃が身体中を駆け巡る。これが、これが「ナポリタン」…。
…時間にして10分ほどだろうか。そこから先はあまり覚えていない。人は本当に「うまい」ものを食べたとき、言葉など出ないということを知った。ただ目の前にある料理を食べる。そこに理屈や感情などは存在しない。
あるのは空になった皿と、幸福な時間だけ。
「ありがとう、ごちそうさまでした」
そう店員に告げる、いくら礼を言っても足りないだろう。
俺は店を後にした。
雨はすっかりあがって雲の切れ間から光が差し込んでいた。