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かんそう

かんそうブログ。20代後半男。札幌

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俺の前世がサイだったなんて

日記

駅前で占いのババアに「あなたの前世はサイよ」と言われた。

 
俺は耳を疑ってババアに「さ、サイ?あの、動物の?」と聞き返した。
 
するとババアは「そう。動物のサイ。間違いないわ。あなたひょっとして負けず嫌いでしょ、前世がサイの人の特徴よ」と答えた。
 
う、嘘だろ。俺は頭の中が真っ白になった。まさか、自分の前世が動物、しかもサイだったなんて。未だに信じることができない。食事も喉を通らない日が続いた。それもそうだろう、俺には前世がサイだった自覚も記憶もないのだから。そもそも前世とはなんだろうか。本当に自分の前世がサイだったとして、サイの時の俺は自分がサイだと言う自覚があったのだろうか。そもそもサイのみならず、人間以外の生物に生まれた場合、自分の「意識」というものはあるのだろうか。
 
時々、動物が主人公の物語の中でこの世界で暮らしている自分の心情をまるで人間かのように吐露しているシーンがある。
 
「そんなこんなでこの飼い主とボクの生活は続いていくのニャ」
 
こんな感じのやつだ。
 
果たして俺は自分がサイだったとき、自分の「こころ」はあったのだろうか。
 
「今日もいい天気だサイ」
 
などと思うことができたのだろうか。
 
そもそも前世というのにはスパンがあるのだろうか。俺は今年で27歳になるが、28年前、もっと細かく言えば人間として生まれるゼロコンマ1秒前までサイだったのだろうか。寿命なのか他の動物に食べられたのかはわからないが、サイの俺が死んで意識がなくなった次の瞬間にはもう人間の赤ん坊としてパッと意識が切り替わるということなのだろうか。ということは仮に来世に俺が人間以外の動物に生まれた場合、人間の俺が死んだ次の瞬間には「うわっ。つぎ俺カエルかよ」てな具合に生まれ変わっているということだろうか。
 
いや、そうだとしたらサイの時の記憶がないのはおかしい。そもそも「負けず嫌い」だからサイてどういうことだ。いやまて、人間の赤ん坊として生まれてしばらくは「自我」というものがない。だとすれば生まれてしばらくは前世でサイの記憶があったが自我が芽生えていく段階でサイの記憶が失われてしまった、と考えるのが自然なのではないだろうか。
 
とすれば、サイの時の記憶がないのも頷ける。そうか俺はサイだったのか。だんだん自分がサイであったことが当たり前のように感じる。目を閉じて胸に手を当ててみるとサイだった時の自分の記憶が蘇ってくるような気がした。あのひたすら大木に頭を打ちつける日々を。
 
後日、俺はまた例のバアさんに会うことができた。  
 
「バアさん、このあいだはありがとう。ひとつ聞いてもいいかな。俺の前世がサイだったっていうことはわかったけど、ちなみにサイの前はなんだったんだい?」
 
「プテラノドンだよ」
 
「ぷ、プテラノドン?あの、恐竜の?」
 
「そう。恐竜のプテラノドン。間違いないわ」
 
胸に手を当ててしばらく考えたが、まったく記憶がない。
 
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