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ポルノグラフィティ新藤晴一が歌い手に歌詞提供してて発狂した

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ポルノグラフィティの新藤晴一が歌い手の「天月-あまつき-」に歌詞提供した。作曲は『アポロ』『サウダージ』『メリッサ』他、初期ポルノの代表曲ほぼ全てを手掛けたポップ鬼こと本間昭光、こんなもん実質ポルノグラフィティそのものなので、一瞬

「いやポルノによこせオイ」

と、サイコモンスターペアレンツファンのワタクシは天月に対して深い憎悪を抱いてしまったのですが、曲を聴いてみると悔しさのあまり舌噛みきりそうになった。死ぬほど良いじゃねぇかよ。どこまでも耳馴染みの良い本間昭光の曲と天月の少年のような無垢さを持った歌声、そしてなにより新藤晴一の描く歌詞の世界観が異常にマッチして恐ろしいまでの狂曲へと仕上がっていた。

 

それにしてもポルノグラフィティ以外の提供曲における新藤晴一の歌詞を改めて読んでみると、その「視点」の動かし方の上手さに改めておののく。

例えば、坂本真綾に提供した『ループ』という曲の一節

澱みなく流れてく河に浮かべた木の葉で

海を目指して雲になって雨で降ろう

遠い君の近くで落ちた種を育てよう

違う場所で君が気付いてくれるといいんだけど

「時間」という概念を表すとき新藤晴一の目は顔にはついていない。遥か天空からの視点で物事を見ている。そして「距離」とはすなわち「時間」でもある。新藤晴一の視点が足元から離れたとき、同時に遠い「未来」にも目を向けている。

そして「〜だけど」と断定しない言い回しをするのも新藤晴一の歌詞の特徴のひとつ。たとえ自分の想いが届かなくても回り回ってどこかで「君」が気付いてくれればいいと願う。どこまでも献身的。それは「究極の愛」と言える。

こんなもん普通の言葉で書けば

「私が死んでもあなたの中に永遠に残り続ける」

という土ドラみたいな歌詞以外の何者でもないんですが、そのある意味「重たすぎる」愛の形を新藤晴一は「神視点」から描くことで普遍的なものへと昇華させてしまう。そこが身震いするほど恐ろしく、狂おしいほど美しい。

 

また、新藤晴一の歌詞を一言で表すのであれば「見える歌詞」。神視点から繰り出されるマキシムな視点から一気にミニマムな視点へとワープする。すると、まるで自分自身が体験した出来事かのように歌詞の映像がフラッシュバックする。新藤晴一のラジオ『カフェイン11』に作詞家の森雪之丞がゲスト出演した際、日記のような歌詞を書くミュージシャンについて

「ある意味晴一は(日記のような歌詞の)先駆者でしょ」

と言っていた。「日記のような歌詞」とだけ聞くと「陳腐」「単純」のようにマイナスな印象を持つ人間も多いだろうが、この言葉は新藤晴一という作詞家に対する最大級の賛辞だと私は受け取った。新藤晴一は物事を俯瞰的に捉える「神視点」を持ちながら、同時にごく身近な生活の中に存在する日記的歌詞、すなわち「自分視点」を巧みに使い分けられることのできる唯一無二の作詞家なのだ。

 

そしてその視点を使った歌詞のギミックが非常に巧みだ。関ジャニ∞に提供した『応答セヨ』。冒頭部分の

つまずいてばかりの僕を

君だけは笑わなかった

という歌詞を見てみると、この時点では「君」という存在に対し恋人、友達、家族などを思い浮かべるのだが、

応答セヨ流星 僕を信じてくれた遠い日の僕よ

この声が届くかい

サビで「君」というのは「夢を抱いた過去の自分」であり「未来の理想の自分」だということが明らかになる。視点が「つまづく」=足元(現在の自分)から「流星」=(過去→未来)へと移っていく。このある種の「謎解き」要素も新藤晴一の歌詞の面白さで、何度も聴くことにより新たな発見がある。

また、視点によって言葉の言い回しを変えるのも新藤晴一のテクニックでは多く使われる。視点が近ければ近いほど言葉は簡素で身近に、視点が遠ければ遠いほど難解で壮大になっていく。

 

声優の中島愛に提供した『水槽』でもそれは強く感じる。

紅に染まってく夕日が今日を過去にする

まだ見ぬ真新しい朝 孕んで闇夜よ深くなれ

冷たい夜風にも耐えよう

新藤晴一が「迷い」を歌詞にする時、やはりその視点は「神」になる。距離を超え時間を超え、概念を超える。

膝を抱え泣きじゃくるほどに 僕はもう弱くもないんだけれど

この世界がどんな人にとっても 素晴らしいものだと言えるほど強くはなれてないんだ

そしてサビで一気に視点が「自分」になる。新藤晴一の歌詞にはほとんど「助走がない」。しかしそこに一切の違和感はない。それは自分の足元も、遠い宇宙も、この世界に存在する全てのものがフラットに地続きだからこそ、視点が飛躍しても決して見ている世界はブレていないからだ。「自分視点」と「神視点」という2つの視点を一曲のなかで完璧に両立させ、壮大さと身近の共存、誰よりも突き放し、誰よりも寄り添う。それが新藤晴一の歌詞の凄さなのだと思う。

 

それらを踏まえて『キーストーン』の歌詞を読んでいくと、いかに完成度が高い曲かがわかる。

その猫は顎を上げピンと髭を伸ばし

路地裏を歩くたとえ腹ぺこでも 

星々煌めく夜空の下 猫は言うのさ

お前の望みは自由か?首輪か?孤独を愛せるか?

前述した2つの視点「自分視点」と「神視点」、それが同時に描かれているのがわかるだろうか。「猫を見ている自分視点」そして「猫(神)視点」。

 

にゃ〜あ

 

……

  

浮かび上がるキーストーン道を照らしてる

ダンスみたいなステップで

軽やかに飛び移れジャンプ

騒がしい未来はもうそこに

…サビでも2つの視点から見た景色が浮かび上がる。猫を見ている自分。軽やかにジャンプしている猫(神)。そしてこの猫とはイコール「自分」でもあるということがここでわかる。この謎が解けたとき、視点が一気に第3の「猫の視点」に集約される。バラバラだった視点がサビの最後にはひとつになる。まるでパズルのピースがハマったように腑に落ちていく。

 

高い壁の上では足もすくむだろう

進むしかないと何故か知っている

時々怖かったりするのかい?猫に聞いたら

心が軽けりゃくるりと回って上手く着地できる

「すくむだろう」と高い壁で足をすくませているのは他の誰でもない「自分」だ。結局迷っているのも答えを出しているのも自分。そんな誰もが抱える悩みや葛藤を軽やかに壁を飛び越えていく猫に重ねる。

 

にゃ〜あ

 

………

 

高層ビルの上から街を見下ろす

明日が来るのはどっちだ?

熱い想いなびかせて

ただ変わりゆく世界を感じてる

そもそも最初から猫など存在しないのかもしれない。この曲における猫はいわば自分にとっての「ハイヤーセルフ」。猫だけじゃなく「鯨」「鳥」など新藤晴一は動物をモチーフを使うことで心情をドラマチックに昇華させる。

 

闇に光ってる無数の目

呼びかければ歌い始める

闇に光る無数の目とは自分でありあなただ。誰もが未来に向かって進んでいく気まぐれな猫なのかもしれな

 

にゃ〜あ 

 

うるっっせえぇぇえええええええなァァアアアアア!!!!!人がマジメに考察してんのになにが「にゃ〜あ 」だコラァァァア!!!!あんま大人なめんなよ!?!?は!?なんだこの曲?!??!

天月ィ!?うるせぇ誰だ知らん!!!!!!!!歌い手?????「い」いらねぇだろカッコつけるな「歌手」でいいだろそれか「ちょっと人より点数取れるだけのカラオケ素人」って言え!!!!!!!あと髪切れ!!!!!!!!