kansou

ミクスチャーブログ

広告

火曜夜は「とわ子」からの「着飾る恋」で情緒バグって死ぬ

現在、火曜ドラマが9時フジテレビ『大豆田とわ子と三人の元夫』10時TBS『着飾る恋には理由があって』という流れなんですが、どちらも「オシャレ人間ども」の人生や恋愛を描いてるドラマにも関わらず、作風が違いすぎて続けて観ると落差に情緒がバグって脳みそ爆発して死ぬ。

 

『大豆田とわ子と三人の元夫』

『大豆田とわ子と三人の元夫』は最近のドラマの傾向から反比例するかのように派手な演出も効果音はほぼない。

その代わり「人間」というものをとんでもなく徹底的に「濃く」描いてる。搾りたての牛の乳の濃度。まだ牛乳とも呼べない飲み干せば腹壊しそうなほどの旨味と雑菌が凝縮された白い液体、それが大豆田とわ子というドラマ。醜さも美しさも隠すことなくそこにある。

良い意味でも悪い意味でも出てくる人間出てくる人間がマックスめんどくせぇ近くにいたら確実に絡みにくい連中ばかり。そもそも惚れた女の元夫と仲良くするなんて正気の沙汰じゃねぇ。そんな奴らが織りなす一見意味のない聞いてるのがバカバカしくなるほどの長尺なセリフの応酬、分かる人間にしか分からない小ネタの洪水、この情報量の多さがそのまま「人間」になる。 

そして膨大なセリフのなかに日めくりカレンダーにしたくなるようないわゆる「名言」をサラッと盛り込むのが脚本家・坂元裕二のやり口。

「ハァイッ!ここッ!いまカッコいいこと言ってますよッ!ほらッ!!出演者の顔アップドン!イイ感じの主題歌ドン!!!」

とならない。「おはよう」「おやすみ」のテンションで、

「性格の悪い友だちとは会わなければいいけど性格の悪い自分とは離れられない」

「別れたけどさ、今でも一緒に生きてると思ってるよ」

 「人を傷付けるのって他人だから慰めてもらうのも他人じゃないと」

とか刺さる人間にだけ刺さる言葉を「ただの会話」として消化してしまう。名言を名言として成立させない。

 

しかもさらにめんどくせぇのが、通常のドラマの何倍もセリフ量あるくせに他のドラマなら言わないと成立しないようなことはほとんど言わねぇ。どいつもこいつもダラダラと屁理屈こねくり回すくせに「好き」だの「嫌い」だの「愛している」だの全然言わねぇ。だから全員セリフ量に反比例して「本心」がまったく掴めねぇ。

かと思いきや、「お前全然喋んねーし行動に移さねぇくせにアイツのこと好きだったの!?!?」みたいなことがふとした瞬間に急にわかったりする。すると無駄と思っていた言動の数々に、エゲツないほどの「意味」が込められていたことがわかり、

「え…?もしかしてあの時のアレってああいう意味…?じゃあ最初のアレもそういう…?は…?わかりにくっ……め…めんどくせぇえええ〜〜〜〜〜…」

となる。「クラスのヤンキー女子…おばあちゃんと2人で買い物してる…キュン…」みたいな好きになりかた。気がつくとそんな「しちめんどくせぇ奴ら」の憎たらしさが百億周回って愛おしくなってる。とわ子達のめんどくせぇ日常を「遠くから」一生見ていたくなる。

 

2話を観た後に1話、3話を観た後に2話を観返すとまるで違うドラマになるし、回を重ねるごとに1秒たりとも目が離せなくなる。どこに伏線が張られてるか…毎回集中しすぎてバッキバキに目が充血してドラマを観る切原赤也になり、いっさい息もできず、「ンんんン゛ーーーーッッッ!!」「アーーーーーッッ!!」「ギィィイイイイーーーッッ!!」という奇声しか出ず、観終わった後に全身を掻きむしり、 

「ハァ…ハァ…このわかりにくさ…難解さ…残念だがこれは大衆には理解されないだろう…だが…安心しろ…俺は…俺はわかるぞ坂元…そう…俺だけがこのドラマの良さを理解できる…」

とわけわかんねぇ評論家みたいなこと言っちゃう。…いっさい憧れないし、なりたくない、なのにこのドラマについて、大豆田とわ子の世界に生きる人間達のことを死ぬまで語りたくなる、それが『大豆田とわ子と三人の元夫』

 

 

『着飾る恋には理由があって』

一方、『着飾る恋には理由があって』はわかりやすさの極みだった。

「あ、こいつ次のセリフで余計なこと言うわ」「あ、こいつ次のセリフでキレるわ」「こいつ告るわ」「こいつ追いかけるわ」「こいつ絶対ヤバい奴だわ」「こいつ抱きしめるわ」

冗談抜きで100パー全部わかる。感情の機微、行動なにもかもが手に取るようにわかる。登場人物全員の脳みそが人体模型みたいに透けてる。にもかかわらずそのチープさ、わかりやすさが一切マイナスになってない、なぜならこのドラマを形成する全ての要素は

 

「キュン」

 

のみに機能しているのですから。ご都合主義?見飽きた展開?マジ上等。深いセリフ?伏線?そんなもん知らねぇ。このドラマの目的は「ラスト5分でイイ感じのイイシーンで星野源の主題歌流す」それのみ。

迷いも悩みも憂いも苦しみも全てが「キュンの前フリ」。物語の過程にキュンがあるのではなく、目指すべきキュンが最初にありそこから逆算して物語を動かしてる。言い方めちゃくちゃ悪いですけど登場人物は全員「キュンのマリオネット」「キュンの奴隷」このドラマの主人公は川口春奈でも横浜流星でもない「キュン」です。そしてキュンを2体生贄にして召喚されるブルーアイズホワイト当て馬向井理。

奴らがドラマで感じる全てが五感を超えて脳に直接注入される。「キュン」と書かれた金属バットでひたすらブン殴られ続ける。両手両足を縛られて心の中のキュンを無理やり刺激される。拷問具アイアンメイキュン。強制射キュンされる。

・酔っ払った勢いで冷蔵庫の前でキス…

・壁一枚へだてて露天風呂…

・ギューしてもらってもいいですか…?

こ、殺殺……鑑賞中はなにか他のことをしてないと精神がメルトダウンする。直視するとその眩しさで目が焼かれる。まず黙って観られない。ありえないほど独り言が増える。

「は?」「ふざけんな」「きっしょ」「なんだそりゃ?」「いい加減にしろ」「風邪ひけ」「地獄行け」「バーカバーカ!」

怒りと羨望と嫉妬で首から上が吹き飛びそうになる。横浜流星が親の仇になる。こんなAVもロクに見れねぇプライベート鬼無視の見てくれだけオシャレ風でレオパレス並の薄壁ペラペラハウスに収容されて美男美女どもが共同生活とか正気でいられるほうがおかしいんだよ。逆に禁欲ハウスだろうがこんなもん。なのにあいつらはなんのストレスもなく平然と暮らしやがる。

最初の数秒こそ「こんな人達と一緒になんか住めるわけない…!」とか形だけ文句たれ蔵うんこたれ蔵してたくせに、一瞬で馴染むその順応力と初対面から馴れ馴れしく話しかけることのできるコミュ力の高さにゲロを吐きそうになる。なにが「デジタルデトックス」じゃボケ。ゴリゴリにリアタイで呟かれること前提にしたドラマでなにわけわかんねーこと言ってんだ?これ観てる奴ら全員放送中1秒も離さずスマホ握りしめてるからな?なんなんだよ…なんなんだよこいつらはよ… 

お、俺だって…こんな生活送りたかった…薄暗い狭い部屋でこんなキショいブログ書く人生じゃなく…少し変わってるけど優しくてオシャレで顔面の良い仲間達と…毎日広いリビングでなんか美味いんだかマズいんだかよくわかんねぇ高い酒飲んだり…くっせぇ外国のチーズとかおつまみに食ったり…休日はドライブして…キャンプという名の設備全部用意された陽キャ共の道楽の代名詞グランピングして…価値観の違いからちょっと言い合いとかになるけど互いの意見とか真正面からぶつけあって最終的に絆深めたりとかしたかったんだよ…なりたかった…俺は横浜流星になりたかった関ジャニ丸山になりたかった。川口春奈が口いっぱいにまんじゅう頬張りながら「ん〜!んいひぃ〜!」とか言ってるところをニヤニヤしながら見つめたかったし、ちょっとぶっきらぼうな中村アンに色んな意味のこもった「ありがと…」を言われてぇ人生だったんだよォオオオオオオオ!!!

と叫びながら家中の食器を全部叩き割り、自分の人生を呪うんだよ…

伏線、考察、そういう余白は一切ないお花畑ドラマ。だが「ふざけんなよ…天皇がこのドラマ認めても…俺は絶対にこんなもん認めねぇからなァボケナスコラ…」とほざきながら次も確実に観てしまう吸引力がある。なぜなら「俺がやりたかったキュン」「俺がなりたかった俺」がそこにはいるのだから…それが『着飾る恋には理由があって』

 

 

『大豆田とわ子と三人の元夫』と『着飾る恋には理由があって』。「なりたくないけど見ていたいドラマ」と「なりたいけど見たくないドラマ」…この2つを連続で味わうことによって三半規管が揺さぶられ、めまい、吐き気などに襲われると同時にとてつもない快感が全身を支配し、海馬に存在しない記憶が植え付けられ、脳みそ爆発して死ぬ。一緒に死のう…?