ポルノグラフィティが『THE FIRST TAKE』
色んな意味でポルノグラフィティ以上に「一発撮り」が似合うミュージシャンいないとずっと思っていた。
よく歌の上手いボーカリストを指して「口からCD音源」と言いますが正直、岡野昭仁を表す言葉としてまったく的を射ていない。
音源とか普通に超えてる。生の岡野昭仁に触れた瞬間、音源は確実に物足りなくなる。このサウダージもそう、リリースから20年経ってなおそれを超え続けてる事実。歌えば歌うほど成長する実写版ドラゴンボール孫悟空。
ライブでサウダージが演奏されるたび「いやCDより上手くね?なにこれ?」とは思っていましたが、またしても「一番エグいサウダージは最新」が更新されてしまった。
「岡野昭仁とワインは年を重ねれば重ねるほどにうまくなる」
今すぐにことわざ認定してほしい。この世の真理になりつつある。
天まで届く高音、画面ブチ破れるんじゃねぇかと心配になる声量、アフリカゾウ並の体力、いっさい外さないピッチの安定感、一言一言が肉親の言葉よりも耳に入ってくる滑舌。「声が形になる」を完全に体現しているのが岡野昭仁で、近年はそこに「深み」と「表現力」が加わって手のつけられないことになってる。
力強さの中に切なさが内包された声のチーズインハンバーグ。真にも迫るし心にも迫るし芯にも迫ってくる3つの意味で「(しん)に迫る声」。声が耳を飛び越えて中に入ってくる。
その正体は、高音を出すときはバッ!と出し、低音で抜くときはスッ…と抜く「声の出し入れの速さ」にあると私は考えている。この低音部分にセンスと若さとパワーでひたすら突き進んでいた音源のサウダージとの一番の違いがある。
わたくし、映画「岡野昭仁の低音をたべたい」で主演をやってるものですが、高音と高音の隙間に顔をのぞかせる低音ヴォイスという名の「色気玉」。絶妙な声の掠れ具合と、音の最後に余韻を残す吐息、これを米の代わりに主食にしたいと考えている。
今回のサウダージで言えば以下の箇所、
- 「私は」の「は」
- 「私と」の「と」
- 「いかないから」の「か」
- 「いつかまた」の「た」
- 「会いましょう」の「し」
- 「その日まで」の「そ」
- 「嘘をつくぐらいなら」の「ら」
- 「話してくれなくていい」の「は」
- 「見つめ合った私は」の「し」
- 「可愛い女じゃなかったね」の「ね」
- 「飾らせて」の「か」
- 「溢れるものだとしたら」の「た」
- 「凛とした」の「た」
- 「許してね」の「し」
- 「さらわれたの」の「た」
- 「いつかまた」の「た」
- 「会いましょう」の「し」
- 「時を重ねるごとに」の「に」
- 「あなたを知っていって」の「て」
- 「時を重ねて」の「さ」
- 「夕日に例えてみたりして」の「て」
- 「陰を背負わすのならば」の「ば」
- 「誰にも邪魔をされずに」の「だ」
- 「海に帰れたらいいのに」の「の」
- 「諦めて」の「て」
- 「青い期待」の「あ」
- 「あの人に伝えて」の「て」
- 「大丈夫…寂しい」の「さ」
- 「繰り返される」の「え」
- 「許してね」の「し」
- 「いつかまた」の「た」
- 「会いましょう」の「し」
- 「夜空を焦がして」の「し」
- 「私は」の「わ」
- 「ナンナナァーーー」の「ナ」
岡野昭仁の低音はいわば「感情のゆらぎ」。恋心を断ち切ろうとする主人公の「迷い」や「憂い」、それが一瞬の低音によって表現している。
「女の言葉で男の女々しさを歌う」
もし自分がマッドサイエンティストだったなら体内を調べたくなる新藤晴一が書くサウダージの世界観を120%表現できる唯一の存在が岡野昭仁だということがまたしても証明されてしまった。アコースティックなアレンジと相まって音源以上に歌詞とメロディの良さが染み渡ってくる。ポルノグラフィティの音楽は乳液。
コメント欄やTwitterのタイムラインでありとあらゆる人間が「己の中にあるポルノ」を爆発させているのを見て、ポルノグラフィティとは、サウダージとは「時代」だったのだと確信しました。
ポルノグラフィティを過去に聴いていた人間はポルノグラフィティのすごさを思い出し、今も変わらずポルノグラフィティを聴いている人間はポルノグラフィティをすごさを再確認する。そしてそれぞれがまた新しくポルノグラフィティの時代を作っていく。
『THE FIRST TAKE』でポルノグラフィティのことを思ったその日が「ザ・ファースト・ポルノ」
「ザ・ファースト・ポルノ一発撮り」
言葉の響きヤバすぎる。FANZAの企画モノか?