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三浦大知の新曲『Le Penseur』すごすぎて意味がわからない

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三浦大知の新曲『Le Penseur』意味わかりません。もはや声が高いとか低いとか曲が速いとか遅いとかアレンジがどうだとか歌詞がどうとかカッコいいとかエロいとかそういう次元の話ありませんでした、これは…なんですか…?

 

二十数年前に『ポンキッキーズ』で三浦大知の存在を知ってから俺の人生には常に三浦大知がいた。その卓越した歌声とダンススキルに狂わされ耳が痛くなるまで曲を聴き漁り、視力が低下するまでMVを観漁り、「異常」とも言える三浦大知の急激なファッションの変化とRHYMESTER宇多丸との関係性の変化とともに、三浦大知という人間を少しでも理解したつもりでいた。しかし、この曲を聴いて「三浦大知って誰?」それすら分からなくなった。今は三浦大知に対して「怖い」の感情しかない。

わずか3分のこの曲のヤバさを言語化することがいっさいできない…曲名すら読めない…レペンセェゥアぁ?は?概要欄によれば(ヨミ:ル パンスール)と読むらしい。なんて?

 

そもそも、レペンセェゥアぁは「2022年1月1日0時00分00秒」という「この世の全ての機関が停止しているハズの時間」に突如として解禁されたのですが、まずこの時間に曲をリリースできるという三浦大知の「力(ちから)」がすでに怖かった。三浦大知はすでに国をも動かす力を手にしていたのだ。

そして、これを聴いてしまったがゆえに、親に「明けましておめでとう今年もよろしく」と言う前に「母さん三浦大知の意味がわからないよ」と言ってしまった。年が明ける前に三浦大知の門が開いてしまった。永遠とも言える長い1年が始まった。「令和4年」じゃなく「大知元年」だった。

 

だが俺は諦めなかった。自分が培った音楽知識の全てを振り絞り、ほぼ同時公開された振り付けMVを専門的に分析した。するとこの映像は、

「ものすごい雰囲気の三浦大知が、エエ感じの女性ダンサー4名を従え、体の骨どこいったん?としか思えない動きをしながら踊り狂う」

という作りになっていることがわかった。

MVを初めて見たとき私はこう思った「インナーマッスルがすごい」と。速くもなく遅くもなく絶妙な速度で変則的な動きを繰り返す三浦大知を見て「三浦大知はインナーマッスルがすごい」そう確信した。三浦大知と書いて「インナーマッスルの鬼」と読む。

 

そしてMV全体を通して何度も繰り返し観ることで、私はあるひとつの事実にたどり着いた。心して聞いてほしい。

「このダンスは、とてもメッセージ性がある」

映像全体からとてつもなく強烈なメッセージを感じた。喜なのか怒なのか哀なのか楽なのか、はたまたその全てなのか、三浦大知とダンサーの一挙手一投足は「なにか」を表しているのである。

特に「Le Penseur……」というコーラスと共に、薄暗い部屋のなか赤い光に包まれた三浦大知とダンサーがちょっとずつ滑るように近づいてくる映像は恐怖通り越してBlizzardでしかなかった。

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どうだろうか。

 

実際「どうだろうか」どころの騒ぎではなかった。どうもこうもない、正直ずっと0.0000001ミリも意味わかってません。だがわかる。「すごい」ということだけはわかる。それがすこぶる怖い、三浦大知の姿をした魔王だった。

三浦大知の動きを見ていると「俺は自分の体をまったく動かせていない」ことに気付かされてしまう。マジで自分の手足に土下座したい。ごめんよ…こんな体で…できることなら俺じゃなく…三浦大知の手足にしてあげたかったよ…と。

 

そんな今までのどれにも似てない、明らかな「異質」を放ったこの曲は、もはや三浦大知からの「挑戦状」。「お前はこれを聴いてなにを思うんだ?お前は『Le Penseur』をどれだけ理解できる?」という問いを突きつけられているのだ…

そう、言ってしまえばこれは「全国統一三浦大知テスト」…上等だよ。何年俺が三浦大知を聴いてきてると思ってる?読み取ってやるよ、この曲から映像から発せられる全てのメッセージをよ…

 

まずタイトル「Le Penseur」という言葉の意味を調べると「思想家」とヒットする。また、フランスの彫刻家であるオーギュスト・ロダンの代表的なブロンズ彫像「考える人」とも同じ意味で、それをモチーフにこの曲は作成されているらしい。そこにフォーカスすればおのずと全てが見えてくるに違いない。

そもそも「考える人」とは、元々イタリアの詩人ダンテ・アリギエーリの『神曲』地獄編第3歌に登場する「地獄の門」をモチーフに作られた作品の一部で、門が完成するのを待たずロダンが死去してしまったため、彫刻の男だけが独立し「考える人」と名付けられた。

しかし「地獄の門」とは「地獄に堕ちた愚者を裁判官が見下ろしている様子」を表現した作品でその裁判官こそがこの男の正体、つまり何かを考えている像ではないと言われている。

曲の中で三浦大知は繰り返し「研ぎ澄まして」「思考し続けて」と歌っている、すなわち三浦大知こそが地獄の門から愚者を見下ろす裁判官であり、この曲を聴いているわれわれこそが愚者であるという何よりの証拠、また逆説的に考えると裁判官が三浦大知であることイコール三浦大知はこの曲において何かを「考えている」わけではない、とも言える。さらに地獄の門の天辺に記されている言葉、

憂いの国に行かんとする者は我を潜れ。

永劫の呵責に遭わんとする者は我を潜れ。

破滅の人に伍せんとする者は我を潜れ。

正義は高き主を動かし、神威は、最上智は、原初の愛は、我を作る。

我が前に作られし物なし。

ただ無窮あり、我は無窮に続く者なり。

我を過ぎんとする者は一切の望を捨てよ。

これを「裏」とすれば…三浦大知は「表」…

 

 

ということは…

 

 

すなわち…

 

 

えー…

 

 

な、なんですか…?教えて宇多丸先生…