通勤中、歩きながらSpotifyで三浦大知のアルバム『球体』聴いてたらそのまま気持ち良さで意識トびそうになって目の前の赤信号に気づかず危うく車とEXCITEするところでした。
それくらい今回の『球体』ってやつは単なるニューアルバムの域を超えてるんじゃないかと思いました。リリースされてから何回もリピートしてるんですけど、正直全然この作品の「底」みたいなものを掴みきれてない。言ったらこんなんもう『伝統文化』、「能」「狂言」「球体」…俺の中ではほとんど同じカテゴリーになった。
っていうのもこの『球体』は全17曲の集合体なんですけど、その一曲一曲がひとつなぎに繋がってるもんだから普通のアルバムを聴くときにやりがちな「好きな曲だけかいつまんで聴く」的なことがまずできない。できないことはないんだけど、ラジオドラマ途中から聴き始めたけど超つまんねぇ、なんでここの定食屋バカボンド3巻からしかねぇんだよ、みたいななんか気持ち悪いことになるし、それくらい曲と曲との間につなぎ目がまるでない。
一応、音楽番組で歌われるようなリード曲的な立ち位置の楽曲もあることにはあって、先日の「THE MUSIC DAY」でも7曲目の『飛行船』って曲歌ってたんですけど、俺も正直あんまピンとこなかったし、櫻井くんもヤッターマン決まったとき以来の腑に落ちない顔してた。
でも、それが『球体』っていっこのボールの中に入ることで、イワシの群れが一匹のバカでかい魚に見える、そういうとんでもないパワー感じるし、単体で聴くとボヤッとしか見えなかった曲の輪郭みたいなものがハッキリとわかる気がしてくる。それこそ能とか狂言を観たときの「なんかよくわかんないけどわかる」っていう感覚、言語レベルの理解じゃなくて、本能レベルで感じる理解。そして、地続きの音と三浦大知の人とは思えない声の気持ち良さに脳がトリップしてきて「あれ…?クスリやってんの俺…?」ってなって車に轢かれる。
にしても、このアルバムを思いついて最後まで作ろうと思ったNao'ymtの良い意味での変態性マジでどうなってんだって感じだし、それをまるっと体現できる三浦大知のボーカリスト、ダンサーいや「表現者」としてのレベルってもうメタモンのそれじゃないですか。ポケモンの。
「音楽」に応じてその姿形声をぐにゃぐにゃ変身させるバケモノ。思えば昔っからそう「free stlye boy」だった。喋ってる時の見た目はマジでただの純朴青年なのに、歌い出すと、踊り出すと、世界一カッコよく見える。目の前にいる姿は、耳から聴こえる声は確かに『三浦大知』なんですけど、三浦大知じゃない、なんか、別の、がっ、概念…?そう、概念がそのまま形作られて、目に、耳に飛び込んでくる感じ…?なにを言ってるんでしょうか私は。
約20年前の俺に「ポンキッキーズで『ピーキーズウィンドウ!』とか言ってちょけてるガキいるだろ?アイツいま日本でダントツで一番のアーティストになってんぞ…」って言っても絶対信じてくれない。たぶん秒で警察呼ばれる。
いやでも、マズいっすよこれ。こんなアルバムリリースしちゃったら、日本中、いや世界中の作詞作曲してる奴らがこぞって「おっ、オレの曲も歌ってくれ」「アタシの書いた歌詞を歌ってお願い」「いや、ワシの短歌に踊りを…」つって三浦大知宛てにダンボール箱にデモテープとか歌詞カードパンパンに詰めて送られてくるんじゃねぇかと心配だし、近い将来、三浦大知の声サンプリングしてみんなが自由に音楽当てられる初音ミク的なやつができるんじゃないかとすら思ってガタガタ震えてる。一億総三浦大知…。
もしかして、次の元号だ、『大知』…?