最近はポルノグラフィティを愛するがあまり、他人がポルノグラフィティを聴かないことに対して「哀れみ」を感じるようになってきた。まだポルノグラフィティに出会っていないのはとてつもない不運だとすら思う。カゴの中の鳥を見つめる気分になる。
ポルノグラフィティに限らず、長く活動している歌手に対する「昔は聴いていた」「昔は良かった」スタンスでマウントを取ろうとする人間に対しても、
「心配しないで…また必ずあなたの前にポルノは訪れますよ…もう少しです…その日までどうか強く生きて…」
と両手を合わせて祈ってしまう。
そんなポルノグラフィティが2年ぶりに新曲を出すことになった。俺は飢えた獣。講釈こねくり回したドエロ失恋曲を求めてた。「に…2年…2年待った…早く…早く俺の耳を溶かしてくれよ…早くくれよ…頼むよくれよォ…」と目バッキバキにしながら初オンエアを迎えた。タイトルは『テーマソング』
「フレー!フレー!この私よ!そしてフレー!私みたいな人!」
色んな意味で脳が破裂した。応援ソングでした。
その時々の流行の音楽を食って自分達の血肉とする音楽バク、それがポルノグラフィティなんですが『テーマソング』は超絶短いイントロ、鬼のような転調、目が焼かれるキラキラアレンジ、サビ2種類、合唱コンクールコーラス、めちゃくちゃ「今の音楽」だった。ぶっちゃけめっちゃYOASOBIの『群青』だった。
その「今の音楽」がまぎれもなく「ポルノグラフィティの音」で鳴ってる。「ポルノグラフィティらしくない」と「ポルノグラフィティらしい」が交互に襲ってきてグチャグチャになった。なんだこれは。
そもそもポルノグラフィティのおそろしさとは聴く人間によって「ポルノグラフィティっぽい」「ポルノグラフィティらしい」がまったく違ってくる「認識の差異」にあるのです。
『サウダージ』や『アゲハ蝶』のような「異国情緒あふれるラテン」こそポルノグラフィティだと言う人もいれば、『ミュージック・アワー』や『ハネウマライダー』のような「爽やか夏ポップ」をポルノグラフィティだと主張する人もいる。『アポロ』や『ネオメロドラマティック』のような「電波ロック」こそポルノグラフィティだと叫ぶ男もいれば、『愛が呼ぶほうへ』や『黄昏ロマンス』のように全てを抱きしめる「全肯定ソング」こそポルノグラフィティだと泣く女もいる。「『渦』と『ラック』こそポルノ…」と腕組みをするイカレもいる。
生きとし生ける人間すべての心の中に「それぞれの信じるポルノグラフィティ」がいるのです。
それで言うと俺の「ポルノグラフィティらしい」は『Jazz up』と『まほろば○△』でした。「応援ソング」はまったく入ってなかった。俺にとってのポルノグラフィティは「勝手に解釈して勝手に勇気づけられろ」のスタンス。
ポルノグラフィティの曲はとてもわかりやすく、わかりづらい。特にギター新藤晴一の書く歌詞は「言い表せない感情」をすくいあげて形にしてもらっているという感覚になる。ポルノグラフィティを聴く行為は「自分の中にあるポルノグラフィティ(感情)」と「スピーカーから流れているポルノグラフィティ(音楽)」をすり合わせるということ。
そう考えるとポルノグラフィティとは「概念」に近いのかもしれない。ポルノグラフィティを聴いて感じる「よくわからんけど、なんかわかる」これが俺の絶頂ポイントだった。
だからこそ、このタイミングで新藤晴一が真正面から書く
「フレー!フレー!この私よ!そしてフレー!私みたいな人!」
が色んな意味で血吐くほどブッ刺さった。
新藤晴一は「頑張れ」「愛してる」を2000字の歌詞で表現する作詞家で、そういう言葉を歌詞に使うのを世界で一番嫌う人間だと思ってた。その男の「フ」「レ」「ー」の3文字は6000字の重みがあった。これはただの「フレー」じゃなかった。
新藤晴一に「フレー!フレー!」って書かせる世界、マジでちゃんとしろ。これが最後でいい。