ポルノグラフィティ岡野昭仁が『猫』カバーしてたんですけど猫というより、もはや虎。
単なる「カラオケ」や「歌ってみた」じゃない、岡野昭仁が歌うことで既存の曲がまったく別の色を帯びて、岡野昭仁に染まっていく。まぎれもなく「カバー」、中途半端な歌い手Youtuberを片っぱしからぶん殴っていく破壊力。
岡野昭仁の歌う『猫』を聴いてると、原曲が持っていた「青春の儚さ」「若さ故の過ち」みたいなものとはまったく真逆のものを感じる。長年人生を連れ添った人との永遠の別れ。こう言うと身もフタもないですが「相手絶対死んでる」。だからこそ
「猫になったんだよな君は」
「猫になってでも現れてくれ」
の言葉の重力に聴いてるこっちが潰されそうになる。「君」に対する「猫になってほしさ」が尋常じゃない。猫=生まれ変わりだろとまで思ってしまう。ワンフレーズワンフレーズの噛み締め方が血流してんだろってくらいに重たい。出だしの「ゆ…」から声の吸引力に耳が引きずり込まれる。ブラックホールボイス。ラストの「僕はァ…またァァア…!幸せでェェエ…」は完全に虎。強くて優しい虎だった。
冒頭のコメントで
「最近の方は本当に歌が上手」
と北村匠海の歌声を褒めていて、相変わらず若手へのリスペクトと己への謙虚さが仏超えて釈迦なんですが、ただ、あえて言わせてほしい「本当に歌が上手」……?はぁ…?
マジで「こっちのセリフ」
こちとら『アポロ』の「ぼ」を聴いた瞬間から20年間毎日岡野昭仁に対して「いや高級スピーカー喉に移植してます?」と言いたくなるくらい歌上手いって思ってたし、最近はもはや「上手」とかそういうレベルじゃねぇんだよ。
音程が取れるとか音域が広いとか、そういう技術的なところとはまったく別の次元で「歌がうまい」。天を突き刺すキレキレの高音と、フワッフワの毛布のような低音。曲によって雲のように声質を変えられる柔軟性がありながらも、どんな曲のどの部分からどう聴こうが一瞬で「岡野昭仁」だと認識できる個性の両立。マネしたくてもマネできない、他のボーカリストじゃない「その声」でしか味わうことのできない快感がそこにはある。
ある意味、親の声よりも心に響く声。バカな言葉でいえば
「歌詞がめちゃくちゃ聞き取りやすい」
言葉が直接入ってくる感覚。どんなにメロディが複雑だろうがスピードが速かろうが関係なく嫌というほど言葉が脳に届く。
それがバラードならなおさらで、歌詞が本来伝えようとするメッセージ以上のものを聴く側に感じ取らせてしまう。岡野昭仁の声には「表現力」って言葉だけじゃ片付けられない、どんな歌詞の世界観でも全て包み込んで空へと放ってしまうような「力強さ」と「広さ」がある。
それは岡野昭仁が21年間ポルノグラフィティとしてあらゆるモチーフの曲を歌ってきたことが関係してると思っていて、相棒の新藤晴一という男は平気で性別も年齢も、人間であるということすら超えた視点での歌詞を書いて岡野昭仁に歌わせる。
その究極系が『愛が呼ぶほうへ』。人間だとか動物だとかをモチーフにした曲は星の数ほどあっても「愛」そのものになって歌った経験があるボーカリストは岡野昭仁しかいないと思うんですが、マジで最初に歌詞があがったとき昭仁はどういう反応したのか知りたいです。
晴一「次の曲の歌詞これなんじゃけど」
昭仁「…僕を…知っているだろうか…いつも…傍にいるのだけど…マイネーム…イズ……あの…新藤…?…この「My name is love」ってなに……?」
晴一「だからそのままの意味よ」
昭仁「そのまま…?」
晴一「この曲を歌ってるお前は『愛』じゃ。お前は人間じゃない、愛になれ、あきっと。リピートアフターミー、マイネームイズラブ」
昭仁「……マイネーム、イズ、ラブ」
みたいな感じでしょうか。けっこう普通に受け入れてそうで怖いですね。「愛」になったんだよな君は…