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ミクスチャーブログ

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King Gnuも藤井風もスピッツもヨルシカも椎名林檎もポルノグラフィティ岡野昭仁だった

「岡野昭仁 配信LIVE2021『DISPATCHERS』」 セットリスト

01. ROLL(ポルノグラフィティ)

02. Zombies are standing out (ポルノグラフィティ)

03. 愛なき… (ポルノグラフィティ)

04. 白日(King Gnu)

05. 優しさ (藤井風)

06. One more time,One more chance(山崎まさよし)

07. 空も飛べるはず(スピッツ)

08. Aokage (ポルノグラフィティ)

09. 旅せよ若人 (Fairlife)

10. ワインレッドの心(安全地帯)

11. だから僕は音楽を辞めた(ヨルシカ)

12. 丸の内サディスティック(椎名林檎)

13. 真夜中のドア~Stay With Me(松原みき)

14. 未来予想図II(DREAMS COME TRUE)

15. Shaft of Light(岡野昭仁)

16. 光あれ(岡野昭仁)

 

終わったあと「岡野昭仁」とは一体なんなんだろうかとずっと考えてた。もはや「歌手」「ボーカリスト」という言葉では収束しきれなかった。概念としての「岡野昭仁」を改めて真正面から感じたとき、感動超えて

「こわい」

とさえ思った。このままではマズい。自分のなかにあった「歌」の定義が揺らいでしまう。グチャグチャにされてしまう。岡野昭仁という男の恐ろしさは、岡野昭仁がその曲を歌った瞬間それからいくら原曲を聴こうが一生岡野昭仁の声を忘れることができなくなる「上書き力」。

King Gnu『白日』、藤井風『優しさ』、スピッツ『空も飛べるはず』、ヨルシカ『だから僕は音楽を辞めた』、椎名林檎『丸の内サディスティック』…今まで何千何万回と聴いた曲達が根底から覆される。耳と脳が岡野昭仁に侵食されてるのがわかった。原曲の記憶が塗り替えられていく。聴きながら「もうダメだ」と思った。

「原曲超えた」とかそういうアホな言い回しとはまったく別次元の意味で「ああ、これは岡野昭仁の曲だったんだ」そう思った。それと同時に今日岡野昭仁が歌った曲たちに対して「一生岡野昭仁が歌った曲として聴いていくんだ…」という事実に失禁しそうなほどの恐怖と興奮を感じた。

これからは常に原曲を聴くとき俺の脳内は「白日 feat.岡野昭仁」であり「優しさ feat.岡野昭仁」になる。『丸の内サディスティック』は『因島マゾヒスティック』になった。は?

 

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例えば、King Gnu『白日』。言わずもがな井口理と常田大希という全く声質の異なる2人のボーカリストでなければ成立しないこの曲を岡野昭仁がどう歌ったかというと、 

「最初から最後まで岡野昭仁で歌い続けた」 

これのみ。Aメロの井口パート「時にはァ…誰かをォ…」からBメロの常田パート「今の僕にはッ何ができるのッ?」の切り替えがこの曲の最大のキモであり難所、井口の聖(セイント)高音と、常田の剛(ギガント)低音のギャップに引っ張られて普通なら誰がどう歌おうが「King Gnuのモノマネ」になってしまう。が、岡野昭仁はAメロもBメロもCメロもサビも1ミリもブレることなく「岡野昭仁」で歌い続けるという離れ業をやってのけた。小手先のテクニック完全無視でただただ「岡野昭仁」という存在を叩きつけた。

Bメロでキー下げしない時点で脳みそが理解処理できずにバグり散らかした。こんな歌い方で成立してること自体が異常。普通ならどこかで音程がブッ壊れてもおかしくないのに耐震構造の一軒家かよとも言うべきゾウの安定感で白日を乗りこなしていた。コースを外れて場外に飛び出そうとしてるのを腕の力だけで押さえつけているかのような圧倒的なパワー。ウマ娘?ワシがウマボーカリストじゃいと吠えながら完全に「岡野昭仁の正解」で白日を歌っていた。白日に別の正解を出したのは、知る限り広瀬香美以来史上2人目。聴きながら「へっ〜〜?」とだらしなく口から屁をこくことしかできなくなった。

 

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例えば、藤井風『優しさ』。岡山弁を操る藤井風と広島弁を操る岡野昭仁の親和性は確定していて仮に今回カバーするなら西のアドバンテージを全開で活かせる「何なんw」「もうええわ」あたりだろうなと思ってた。が、選ばれたのは方言ゼロ、ド正面のスタンダードバラード『優しさ』。この瞬間、藤井風と岡野昭仁の殴り合いが始まった。

同じ歌詞、同じメロディなのに歌う人間が違うだけでここまで受ける印象が変わるのかと衝撃で顔が『HELP EVER HURT NEVER』のジャケットになった。藤井風の『優しさ』は相手をフワッと包み込むブランケットのような歌唱だったのに対し、岡野昭仁の『優しさ』は相手を飲み込んで自分と一体になることで優しさを体現するという魔王の能力のような歌唱。今回の岡野昭仁ソロプロジェクトのコンセプトが「歌を抱えて歩いていく」なんですが、この瞬間は「歌を押し倒して抱きまくる」だった。

男女新旧問わず次から次へと岡野昭仁に吸収されていく。この世にある全ての歌は完全に「岡野昭仁が歌ったか」「岡野昭仁がまだ歌っていないか」に分けられた。いや、そもそも「歌」とは岡野昭仁に歌われることによってはじめて「歌」になるのではないかとすら思う。まだ歌にならざる曲たちよ、岡野昭仁に歌われる日を願って眠れ。 

 

げに恐るべきは岡野昭仁はソロ活動で得た全てを「ポルノグラフィティに還元する」と言い切ったということ。わかるか?King Gnuも藤井風もヨルシカもスピッツも椎名林檎もドリカムもいずれポルノグラフィティになるんだよ。