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ミクスチャーブログ

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『邦キチ!映子さん』の「池ちゃん」が地獄を煮詰めてできた純度100%のサブカルクソ野郎(俺)でした

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毎回「邦画」を題材にツッコミどころを見つけて味がしなくなるまでイジり倒す漫画『邦画プレゼン女子高生 邦キチ!映子さん』の最新回『花束みたいな恋をした』に登場したキャラクター「池ちゃん」が、あまりにも地獄みたいなサブカルクソ野郎の魂を煮詰めてできた生きとし生ける全てのカルチャー好きに感染するウイルスで緑色のゲロ吐きそうです。

そもそも題材になってる映画『花束みたいな恋をした』は、菅田将暉と有村架純が演じる「ド痛サブカル好きクソカップルの5年間」を描いた物語で、登場する「知る人ぞ知る固有名詞の多さ」と「主人公2人のカルチャーに対する自意識のデカさ」によってただの青春ラブストーリーというよりは、「カルチャー好きを殺すサブカルスプラッター」の側面を持ってる観るなキケン!の劇薬映画なんですね。

誰かが長文で『花束みたいな恋をした』の感想を語れば語るほど「その人間の痛さ」をあぶり出す踏み絵みたいになってて「物語を語ってるようで単なるキモい自分語り」に終始するか、「主題と関係ない斜め上の視点で語ろうする的外れ野郎」の二択になるってしまう。だから『花束みたいな恋をした』に対する感想の正解は「キュンキュンした〜」「切なかった〜」のみ。

が、邦キチは「自分のカルチャー好きを周りにアピールしたいがために早口で中身のない語りをするつまらない人間」ことサブカルクソ野郎の化身である「池ちゃん」を物語の主軸に置いて話を進めることでイコール『花束みたいな恋をした』を語ることになっているというメタ回で、この構造があまりにも美しくグロテスク。

池ちゃんは「『花束みたいな恋をした』の脚本が坂元裕二」という断面から、

坂元裕二と野木亜紀子を神格化→坂元裕二脚本ドラマ『大豆田とわ子』の話→伊藤沙莉のナレーションを褒める→角田晃広の演技を褒める→東京03の古参ファンアピール→お笑い好きアピール→キングオブコント2021の内容ではなくOP映像をの良さをあえて語る→優勝した空気階段のラジオ『空気階段の踊り場』リスナーアピール

と、サブカルクソ野郎トークの完璧なテンプレをやってのけてるんですが、池ちゃんがカルチャー好きをアピってのさばればのさばるほど、それは『花束みたいな恋をした』で菅田将暉が演じている「面白い作品が好きで面白い何者かになりたいけど何者にもなれないオレ」こと「麦」を芯から体現してることになるんですよ。

なにより一番の恐怖が、面白いもの好きをアピールし、noteで映画の感想記事を8000字書いてしまうような池ちゃんを見てなんか言ってるわれわれTwitter民(サブカルクソ野郎)こそ、池ちゃんをさらに薄めてできた「ジェネリック池ちゃん」であるというなによりの証になること。

「私も話下手だから池ちゃんの気持ちわかる」と共感しようが、「面白くない池ちゃん可哀想」と同情しようが、「俺は池ちゃんみたいに長文書けないから凄い」と卑下しようが、「池ちゃんは自分の気持ちを優先し相手の話を聞こうとしないのが悪い。しかも〜」と分析しようが、全ては「池ちゃんの一部」。

池ちゃんに対してなにかを語る行為そのものが「自分は池ちゃんと同じ穴のムジナであるを自覚してる分析力のあるオレ」もしくは「自分は池ちゃんとは違う特別な面白いオレ」をあぶり出す踏み絵になってる。『花束みたいな恋をした』と「池ちゃん」の二重トラップ。マジでなにがしてぇんだ作者?ロクな死に方しねぇ…

池ちゃんに対する最適解は「無視」それのみ。池ちゃんに触れたその時点で人は池ちゃんスパイラルの渦に巻き込まれて永遠に池ちゃんの呪縛からは逃れられない。

そしてこれを書いているオレも「池ちゃんを冷静に俯瞰して考察できてるオレ」という自意識に飲み込まれる池ちゃんの一人。無限池ちゃん。全員インターネットやめたほうがいい。