ミルクボーイ『コーンフレーク』
「母親が好きな朝ごはんの名前を忘れた」という導入から、
「甘くてカリカリしてて牛乳とかかけて食べるやつ」
「晩ごはんで出てきても全然いいって言うねん」
「なんであんなに栄養バランスの五角形んかわからんらしい」
「お坊さんが修行のときも食べてるって言うねん」
と、「コーンフレークの特徴」と「コーンフレークとまったくかけ離れた特徴」を交互に繰り返し、
「コーンフレークやないか。その特徴は完全にコーンフレーク」
「コーンフレークはまだ朝の寝ぼけてるときだから食べてられんのよ」
「あれは自分の得意な項目で勝負してるからやと睨んでんのよ」
「朝から楽して腹を満たしたいという煩悩の塊やねん。煩悩に牛乳かけて食べとんねん」
と「コーンフレーク」に対する違和感をパワーワードでグサグサぶっ刺していくコーンフレーク抹殺漫才。たぶんそのうちケロッグから訴えられる。
この「題材に対する共感と偏見」こそがミルクボーイの漫才の型。男優みたいな色黒マッチョの駒場孝が平熱のテンションで「聞いた話」としてその題材の特徴を説明し、ベテランのタクシー運転手みたいな内海崇がハッキリした声で特徴に対して肯定否定していく。
前述したセリフを見てもわかるとおり、題材を腐すある種の「毒舌漫才」だが、腐された側も思わず唸ってしまうくらい一言一言の破壊力がものすごく強い。しかも、ネタが進むごとに共感と偏見の角度が鋭角になっていくのでたとえパターンの繰り返しでも、3分だろうが4分だろうがいつまでも見ていられる。
前半は「あーあるあるw」くらいの比較的予想できるネタで初見の客にも「こういう漫才をやるコンビなんだな」とちゃんと自分たちを認識させ、エンジンがかかってきた後半にまったく予測してなかったところを抉ってくる。だからこそ、パターンを持ってるネタによく言われがちな「展開の意外性」がなくてもまったく飽きないどころか相乗的にどんどん面白くなる。
「その食べ物を芸人で例えると正統派漫才師やって言うねん」
「コンフレークを芸人で例えると8人組ショートコント集団」
「食べてる時に誰に感謝していいかわからんらしい」
「コーンフレークは生産者さんの顔が浮かばへんのよ。浮かんでくるのは腕組んだトラの顔だけ」
ここまでパワーワードを連発しているのにも関わらず、わざとらしい「ボケてる感」「ツッコんでる感」をまったく感じさせないくらい話し方がナチュラルで本当に上手い。だからこそ「題材の面白さ」が120%活きてくるし、嫌味なくあるあると偏見ネタが入ってくる。
このスタイルの強みは「題材があれば無限にネタを作れる」ところにあると思う。ミルクボーイのYouTubeチャンネルを見ても「サイゼ」「競歩」「演歌」「デカビタ」「滋賀」「湯葉」など突きどころが少しでもあればいくらでも料理できる。それこそネットで流行る「構文」のような誰もがマネしたくなる中毒性がある。
そしてミルクボーイの一番のすごさは、そんな「ちゃんと作り込まれたネタ」にも関わらずどこか「オッサン2人の立ち話」の雰囲気もあるというところにあると思う。発明的なフォーマットの漫才なのに、ミルクボーイの2人にしか生み出せない世界観がたしかにそこにあって、芸人がよく言う「ハード(ネタの形、台本)」と「ソフト(ネタの中身、人となり)」が両立してる。
しかもミルクボーイはこの型の漫才をずっとやり続けて一つの武器をひたすら磨いてきた。それは誰にでもできることじゃない。そして今年「コーンフレーク」という最高の素材にやっと巡り合えた。これこそが「芸を極める」ということなんだと思った。ミルクボーイ、確実に今年爆発します。