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ミクスチャーブログ

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永瀬廉を「当て馬」と呼ぶやつを許さない

朝ドラ『おかえりモネ』に出ているキンプリ永瀬廉の演技があまりにも最高で、最初りょーちんが永瀬廉だと気づかず、和田アキ子のテンションで「なにをされてる方なの…?」と調べ『King & Prince』の文字が出てきた瞬間「二度見 & 絶叫」しました。

どんなに明るく振る舞っていてもそこに「闇」を感じさせる瞳…ふとした瞬間の表情の陰の落とし方…触れたら壊れてしまいそうな儚さ…その後ろに隠された確かな狂気…

決まった…二代目ラスト・フレンズ、二代目それでも生きてゆく、二代目ヒメアノ~ル、二代目青の炎、二代目十三人の刺客は永瀬廉に決定や…これはとんでもねぇサイコ俳優が誕生したで…と興奮し、この素晴らしさを共有するためTwitter開いたら、りょーちんの検索候補に

「当て馬」

と出てきてキレました。

 

当て馬警察の警視総監として永瀬廉を、りょーちんを「当て馬」と呼ぶやつは俺が許さねぇ…

 

いいですか、そもそもこのドラマは単なる恋愛ドラマじゃないんですよ?

俺は『おかえりモネ』とは「再生の物語」だと思っていて、モネだけじゃなく、りょーちんも菅波もみーちゃんもすーちゃんも三生もモネ親父もモネ母もモネジジイもりょーちん親父も朝岡キャスターもサヤカさんも、何かを失い傷ついた人達がその傷と向き合い、どう生きていくのか、それぞれの長い人生を描いてる。そして、その途中に家族愛があり友情があり恋愛がある、それだけのこと。

「主人公が結ばれること」そのものがゴールにあるドラマと「主人公が結ばれたその先」にまた新たなスタートがあるドラマとでは大きな違いがあり、『おかえりモネ』は間違いなく後者。全ての登場人物たちは終わりのないレースを走ってる。

みーちゃん→りょーちん→モネ⇔菅波

こんな相関図で表せるほど四人の感情は単純じゃないし、むしろ四人にとってはここからがスタート。だからこそりょーちんを「当て馬」にするわけにはいかねぇんですよ。りょーちんの心の闇はマリアナ海溝よりも深い。

りょーちんはモネに対して、恋愛感情を超えた、自分を受け止めて包み込んでくれる「母性」のようなものを求めていたのかもしれない。自分を救ってほしい、苦しいことから解放されたい、そんな想いが一番に来てしまい、モネの気持ちを考える余裕さえなくなっていた。その証拠にりょーちんはモネの仕事のことを知りながらも知らないフリをしてモネに向き合うことができなかった…

 

何度も繰り返しますが「当て馬」というのは、「主人公が結ばれること」そのものがゴールの作品において最初から順位が決まっている勝ち目のないレースを走らされ、物語をある程度盛り上げたのち自分からあっけなく退場していく悲しきピエロ野郎のことを言います。

ヒーローとヒロインの世界をより輝かせることを目的に生まれてきた舞台装置。ヒーローとヒロインの気持ちを再確認するスパイス。脚本家の腐りきったエゴが生み出したモンスター。ヒロインがいなければ世界に存在することすら許されないゾンビ、二人の幸せを錬成するための人柱、恋愛という祟り神に差し出す村の生贄。

1に相手、2に相手、3、4が相手、5に相手の自己犠牲サイボーグ。四六時中、相手のことだけを考え、相手の幸せを想い、相手のために爆死するボンバーマン。ババ抜きで相手の手札にジョーカーがあるとわかっていて自分からそれを取りに行く愛すべきバカ、それが当て馬。

そういう意味で言っても、りょーちんは絶対に当て馬になれないし、なってはいけない。なぜなら気持ちにケリをつけたりょーちんの人生もまた、ここから続いていくのだから。言い方乱暴ですが、モネへの気持ちが届かなかったくらいでりょーちんは終わらねぇ。勝手にりょーちんを当てて消費するな。絶対にりょーちんは帰ってくる。

 

りょーちんよ…おまえを救ってくれるのはモネじゃない。恋愛じゃない。本当に酷な話だが、りょーちんが抱えている苦しみは「誰か」じゃなく「自分自身」で乗り越えなきゃならねぇ。「りょーちん」という船はりょーちん、おまえの手で漕いでいくんだよ…すまん…なんか先輩の曲みたいになった…

『おかえりモネ』とは、りょーちんが苦しみや悲しみと向き合い成長していく物語でもある。だからりょーちんは当て馬なんかじゃない、もうひとりの主人公『おかえりりょーちん』だよ。