これは追悼です祈りです、違いますこれは百合です、違いますなにが百合じゃこれは友情です的な読者間の殴り合いは作者が明言してない以上、誰がどう捉えてもどう咀嚼しても個人の感想でしかないので「知らん!勝手にやれ!」と思いますし、正直なにがモチーフとかなんでもいい。それ抜きにしてもルックバックは単純に話としてべらぼうに面白いし、漫画としての完成度が異常に高い、それだけ。とにかく今はこれを描ききった藤本タツキというバケモンに恐れおののきたい。
まず藤野と京本が出会うまでの過程。最初は校内新聞に4コマを載せていたのは藤野だけで小4で「面白い漫画が描ける」っていうのはそれだけで尊敬の対象になったりするのはあるあるだと思うんですけど、そこのリアリティがただの現実。特に最初の4コマ『ファーストキス』が「クラスの明るいやつが調子乗って描いたちょっと面白い4コマ」のクオリティで震えが止まりませんでした。やってくれたな藤本タツキ…「こういうのをクラスで描いてたらチヤホヤされるだろうな」のラインを完璧にわかってやがる…。藤野は最悪別に漫画じゃなくてもいい、友達もいるし、運動もできる、ただ「ウケるための手段のひとつ」として描いたっていう共感と羞恥でめっちゃゲボ出た。絶対卒業文集でボケるタイプだろ藤野。
それで次の4コマで藤野の『奇策士ミカ』と京本の『放課後の学校』が同時に並んでるんですけどここの対比恐ろしすぎるだろ。たしかに京本より絵は下手ですけど「廊下を走るのは校則違反」からの「運動会の100m走で相手のレーンに廊下を敷いて走らせない」の流れはちゃんと起承転結のある4コマ漫画になってる、反対に京本は絵は上手いけどほとんど風景画で4コマ漫画の体をなしてない、完成度的には五分五分。が、さっきも書いたように藤野の4コマはあくまでも「ちょっと面白いだけの漫画」なので隣に小学生のレベル超えたクソウマ絵が載ってたらそっちに傾くのは性(サガ)、ヒューマンネイチャー。
そこから京本というライバルが登場して「自分だけがチヤホヤされてたのに…」っていう優越感が削がれていく流れがとんでもなくリアル。それを受けてムキになった藤野は「京本に勝ちたい」「京本より目立ちたい」って動機から漫画にのめり込むわけですけど、そもそも藤野って別に「漫画を描くこと」が好きなわけじゃないと思うんですよ。別にウケれば、目立てればなんだっていい。
そこで「絵を描いてる奴」=「恥ずい」みたいな空気がちょうど蔓延してくる6年の時に、クラスメイトが絵に没頭している藤野に対して「中学で絵描いてたらさ…オタクだと思われてキモがられちゃうよ…?」と腐したり、姉ちゃんに嫌味言われたり、最後に描いた4コマ『真実』がクオリティの高さに反して周りの反響がまったくなかったことに加えて、「絵を勉強したからこそわかる京本の絵の上手さ」を悟る眼球アップのシーン、しかも小学校時代おそらく2000年代初頭って全然「体育会系>文化系」の雰囲気はゴリゴリにあったし。という、藤野が漫画を諦めるに至るまでの心境変化があまりにも自然でゲボ超えて胃液出そうになった。
だからこそ京本との出会いは藤野にとってド衝撃で、褒められたのが他の誰でもなく「京本」だから藤野は漫画をまた始めた。仮にクラスで藤野の漫画がウケ続けてたとしても、仮に家族から応援されてたとしてもたぶん藤野は漫画描くことをやめてたでしょう。自分が一番のライバルだと思っていた人間から尊敬されていた、「(絵の)天才」だと思ってた人間から「(漫画の)天才」だと言われた、これが藤野にとってのビッグバン。
藤野が京本の家に入るシーンもすごく良かった。藤野が母親に「これ一緒に捨てといて」と言ったときのスケッチブックの量と京本の家にあるスケッチブックの量の差、ここで明確に一回「ああ…勝てねぇわこれ」と思わせるのも、そこから「話は自分で絵は京本」にもっていくのも上手い。
二人が漫画賞の佳作を獲ったシーンも担当者が藤野キョウの「話と背景」を評価しているところも刺さる。「藤野は一人でも描いてやっていけた」って感想みかけたんですけど、うるせぇ。少なくともこのときの二人は絶対に「二人」じゃなければいけなかったんだよ。ゆえに「背景」を評価されてた京本が「もっと絵が上手くなりたい」って思うようになるのも、そこから二人が別れてしまうのも「そうなるだろうな」って説得力が生まれる。
そして一人残された藤野が「漫画を描く理由」なんですが「そうするしかなかった」んだと思うんですよ。青春時代のほとんどを漫画に費やし、ここからまた別の道を探すなんて労力がデカすぎる。もう藤野には「それしかない」。言い方悪いんですが続ける意味もないけどやめる理由もない。さっきも言ったように藤野は漫画に対して「これしかない」ってほど熱量あったわけじゃなかったと思うんですけど「京本に勝ちたい」って理由からのめり込んだ漫画が、京本と一緒に漫画を描くようになったことで「京本と描く漫画が好き」に変わっていった。だから成功した自分を見せてついてこなかった京本を後悔させてやろうっていう当てつけもあったのかもしれない。その意地とか覚悟みたいなもんがセリフなしの「ひたすら描き続ける背中」で表現されていたんですよ。「漫画がうめぇ…」ってなって感情が終了した。
そしてあの事件が起きて藤野が見る「if」に繋がっていくんですが、小学校時代の姉ちゃんが言った「カラテ教室来なよ」から藤野が漫画をやめて空手を始めるのも、京本が藤野と出会わず絵だけを描き続けて同じように美大に進むのも自然。「現実」と「if」は決してかけ離れてない「あったかもしれない世界」。これは「餃子」のことを「ギョーザ」と読むのか「チャオズ」と読むのか、それだけの違い。餃子と天津飯、それが京本と藤野だった。
そうして2つが交わり、あのラストシーンに繋がっていく。藤野が京本の家で4コマ『背中を見て』を見つけるじゃないですか。さらに京本の部屋の窓に貼ってあった4コマが一枚はがれてるのもわかりますよね?そこから最後のページで藤野が窓になんか貼ってますよね?これって藤野が京本の『背中を見て』を貼ったってですよね…?
これって「if」では事件後に京本が藤野のことを思い出して『背中を見て』を描いたわけですけど、現実ではそれ以前に京本が藤野と別れてからも彼女をずっと想い4コマ漫画を描き続けていたというなによりの証…
二人で作り出した漫画を描き続けてきた藤野と、藤野を想い続けてきた京本…だとしたら…風景4コマしか描けなかった京本が「おもしろい4コマ」を描いた、これってまぎれもなく「二人が歩いてきた時間」を肯定するものになってると思うんですよ…あの4コマは藤野と一緒に漫画を描いていたあの時間があったから描けたものだし、そうであってほしいんだよ俺は…
…って書き終わったあとに読み返したんですけど…は…?ラストページ…よく見たら藤野が貼った紙…「コマ割」描いてねぇ…しかも京本の家で藤野が発見した紙にもコマ割描いてねぇ…い…いや待て…『背中を見て』の筆跡…ふ…藤野…お…おまえ…これ…え…?なんだこの漫画…?
えーと…ルックバック、祈りで、百合です(考察ぶん投げ)