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ミクスチャーブログ

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アルバム1曲目「カムパネルラ」が鳴った瞬間、米津無限ループ突入

 米津玄師のアルバム『STRAYSHEEP』。出荷枚数時点でミリオン達成とかいうイカレたことになってるので、語ることはもはや特にないです。

たとえば、アルバムの流れの素晴らしさ。4曲目『PLACEBO』までの「これが米津じゃい」をいきなり見せつけられる序盤から、『パプリカ』で懐かしくも寂しい過去への回帰を挟み、『馬と鹿』〜『優しい人』〜『Lemon』のイントロ無曲(アズ・スーン・アズ・米津ボイス)の止まることのない哀美なメロディの川を経て、『まちがいさがし』という優しい森に包まれ眠り、『ひまわり』〜『迷える羊』〜『Décolleté 』〜『TEENAGE RIOTS』でどうしようもない絶望の砂漠からほんのすこしの希望へと全速力で駆け出し、最期には『海の幽霊』〜『カナリア』で天へ召される。このアルバムを聴き終えたとき、

「人生…」

と口に出たとかそんな話はどうでもいい。最後まで米津たっぷり、聴くトッポ。聴けばわかる。米津を感じろ。

 

が、一曲だけどうしても「語らなければ死ぬ」と思った曲。

 

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『カムパネルラ』

 

一音目が鳴った瞬間から、再生ボタンを押した1秒目から「ハイ死ぬまで好き」と思える曲に出逢ったときって目の前の景色変わるじゃないですか。聴いた瞬間、耳を通して全身に麻薬みたいなのがグゥアァーーーー!って駆け巡って毛穴という毛穴が全部かっぴらくじゃないですか。

『カムパネルラ』

まさにそれ。こんなバケモノ曲をアルバムのド頭に持ってきた時点で、仮にその後の曲が40分全部セミの鳴き声だろうがなんだろうが俺の中で100点満点中2兆点のゴッドアルバムになりました。イントロの汽笛の合図で、ロングフリーズ米津最強上乗せ特化ゾーン始まった。

 

「歌っている人はジョバンニではなく、どちらかというとザネリというイメージです。ザネリはいじわるな子で、カムパネルラが死ぬ直接的な原因になってしまった人。自分はザネリにすごく感情移入する部分があるんです。人間は犯した過ちによって、直接的、間接的に限らず、誰かの死の原因になり得る。自分のいろんな選択が、誰かの死につながっていると思うんです」

米津玄師「STRAY SHEEP」インタビュー|3年かけて磨き上げた傷だらけの宝石 (3/4) - 音楽ナタリー

 

インタビュー記事からも分かるとおり『カムパネルラ』、耳から摂取するタイプの地獄です。わたくし、曲なんて暗けりゃ暗いほど良いと思ってる人間なので聴きながら白目剥いてヨダレ垂れてます。地獄にもかかわらず、アレンジの煌つきと、鉄琴とクラップのリズムが勝手に腰振らせて、この「笑いながら狂ってる感」どうにかなっちまうよ…序盤は綺麗に歌ってると思ってたのにCメロで、

「かがァや゛ァアッァッゥ!クリスダアァッァァゥッッ!!」

いきなり感情爆発させてくるのとか、技術と感情の緩急の付け方がダルビッシュなんですよ。米津玄師の手のひらでくるくる踊らされてる。あんなん聴いちゃったらラストの「カムパネルラ…」が後悔と懺悔の叫びにしか聞こえません。

 

しかも、これは決して単なる「銀河鉄道の夜のテーマソング」じゃなくて、たしかにモチーフ、着想はカムパネルラを死に追いやる原因を作ってしまったザナリの視点から来てるのは間違いないんですけど、インタビューでも

「3年間で自分の目の前から通り過ぎた人たちがいったいどれくらいいたんだろうという気分になった。通り過ぎたというか、俺の音楽を好きでいてくれたのに、死んでしまった人がどれくらいいたんだろう」

って言ってるように、物語を通して自らの「背負いし業」の部分をピックアップして曲に昇華させてる。負った傷も、他人の死すらも全て受け入れて、ある意味で自分達が生きていく上での「輝き」と表現する米津玄師の覚悟のヤバさ。

そしてそれは聴いてる俺達にも大なり小なり当てはまっていて、自覚的でも無自覚でも自分が原因で人生が変わってしまった人ってのは必ずいる。だからこそモチーフを超えて「俺にとってのカムパネルラ」「お前にとってのカムパネルラ」と重なって、メチャクチャ腹痛くなる。

 

なによりおそろしいのが、パッと聴きでそこまで直に「意味」を感じさせないってところで、歌詞の美しすぎる言葉選びや、前述したようなメロディの浮遊感とキラキラしたアレンジで1度や2度聴いたくらいじゃ曲の全容を掴ませない。これは他の曲にも言えることなんですが、基本的に「なんのこと歌ってんだかよくわかんねぇ」。

にもかかわらず、随所に何度も何度も何度も聴き狂いたくなるような仕掛けを散りばめさせて、聴いた人間をその曲から離さない。ステーキみたいな一聴のインパクトと何度も聴くことで美味さが増してくるビーフジャーキー感を両立させてる。で、ある日フッと気づくんですよ。電車でなんとなく聴き流してるとき、会社の便所でメロディが頭に流れてきたとき、米津の曲を聴いてるとき聴いてないときに関わらず、それはいきなり訪れる。

「あの歌詞って…まさか…オイオイオイ…」

「あのメロディ…もしかして…は…?ヤバ…」

最初に抱いてた曲の印象が180度ひっくり返される。胸のあたりから黒い手がヌッと出てきて底に引きずり込まれて、一生その曲から逃れられなくなる。

 

そうなったらもう終わり、終津玄師(おわづけんし)です。最初に書いたように、このある意味で普遍的なこの曲を頭に持ってきたことで、アルバムの1曲目にも関わらず「ラスト感」が生まれる。ゆえに15曲目の『カナリヤ』を聴き終えた時点でまた耳が『カムパネルラ』を欲してしまう…

そして、カムパネルラのあと再びノータイムでブチ込まれる『Flamingo』『感電』……終わりなき米津無限ループスタート。聴いてる俺自身が米津玄師が作った音楽の森から抜け出せない、幸せな迷える羊になった。永遠に迷ったままでいい。