米津玄師がただの「爽やか朝ドラ主題歌」作るわけがなかった。テレビサイズの時点で
米津「口のォ中はたと血が滲んだァ…そォ゛オ゛オ゛らにツバを吐゛くゥ゛ウ゛……」
俺「あーっ!やばいやばい!出ちゃってる!出ちゃってる!はじっこから米津玄師の米津米津がちょっとハミ出ちゃってるよ!早くしまって!」と叫んでたんですが、
米津「見上げた先には何も居なかったァ…アーアーアー居なかったァ……ウゥウヒャヒャァアアッ!!!」
ウゥウヒャヒャァアアッ…
来た。満を持して来た。閉ざされた壁の向こうから巨大な米津玄師が顔を覗かせ「またせたな」と言わんばかりにこちらを見ていた。
ここで謎の笑い声をブチ込んでくるのが米津玄師、たしかに『Flamingo』や『でしょましょ』でも曲中に笑い声が使われているが、まさか朝ドラの主題歌で使うとは誰が予想しただろうか。
普通のミュージシャンはここに笑い声を入れようとは思わないし、リスナーもまさかこんなところで笑い声が来るとは夢にも思わない。見えない角度から後頭部を殴られたような衝撃だった。
米津玄師には常識など通用しない。いや米津玄師こそ常識なのかもしれない。信号機が米津色になったら止まれ、ということなのです。
1番の「見上げた先には燕が飛んでいた」と2番の「見上げた先には何も居なかった」の対比…「燕」とは希望のメタファーなのか…だとすれば「何も居なかった」とは希望が無くなったつまり「絶望」、その絶望を「笑い飛ばす」という意の笑い声なのか…?それとも単純に希望が無くなったことへ「マジで全部どうでもいい」という人生の諦めの笑い声なのか…どっちなんだ…米津…?
歌詞にはない一瞬の笑い声だけで無限の想像を掻き立てられてしまう。書こうと思えばこの笑い声だけで10000字の論文が書ける。これが米津玄師。これが米津米津曲。
「したり顔で 触らないで 背中を殴りつける的外れ
人が宣う地獄の先にこそ わたしは春を見る」
「米津玄師」と辞書で引いたらこの歌詞が書いてあってもいい。仮にこの曲をいっさい知らない状態で、黒ずくめの謎の集団によって牢獄に閉じ込められ、
「今からお前に歌詞を見せる。誰が書いたか当てろ。外せば死ぬ」
と、この一文を出された場合、私は一瞬で「はい米津」と答えることができます。それほどに米津玄師の歌詞でした。
そして、先ほどの問いの答えがすぐに出てしまった。曲の内容がドラマタイトルでもある「虎に翼(ただでさえ強い力をもつ者にさらに強い力が加わることのたとえ)」から来ていることは分かっていたが、フルで聴くと「虎はなにゆえ強いと思う? もともと強いからよ。」と言わんばかりに、どんな困難も返り討ちにする主人公・猪爪寅子の圧倒的パワーが痛いほどに表現されていた。
「口の中はたと血が滲んで 空に唾を吐く」
このフレーズだけが曲中で唯一で2回繰り返されているが、1番では世の中の理不尽に殴られ、もしくは悔しさに自分で唇を噛み締めて血が滲んでいる印象を受けたが、ラスサビではその前に
「繋がれていた縄を握りしめて しかと噛みちぎる
貫け狙い定め 蓋し虎へ どこまでもゆけ」
の一節が入ることによって虎となり相手の喉元を噛みちぎる姿が目に浮かんでくる。1回目と2回目では印象がまるで真逆。
『さよーならまたいつか!』という曲名を見たとき、正直最初は「なんじゃその曲名…」と困惑したが、フルで聴くとこれ以上に猪爪寅子を表したものはない。
古来中国の言葉に
「虎は死して皮を残し、人は死して名を残す」
というものがある。獣虎は、死んでのち立派な毛皮を残すように、人は死んでもその「思想や理想」は決して死ぬことはない。100年後に生きている人間は誰もいないが、その魂は未来に受け継がれている。そんな想いを込めた「さよーならまたいつか!」なのか…?
とんでもないファイトソング、応援歌が誕生してしまいました「米津米津曲だ…」と恐怖する一方でパワーがみなぎってくる。
心なしか、曲を聴いてから二の腕が太くなったような気がするし、腹筋も割れてる気がする。視力も上がった気がするし、睡眠も十分に取れている気がします。
虎になって100年先も米津に会いたい。