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ミクスチャーブログ

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ポルノグラフィティ新藤晴一が歌い手に歌詞提供してて発狂した

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ポルノグラフィティの新藤晴一が歌い手の「天月-あまつき-」に歌詞提供した。作曲は『アポロ』『サウダージ』『メリッサ』他、初期ポルノの代表曲ほぼ全てを手掛けたポップ鬼こと本間昭光、こんなもん実質ポルノグラフィティそのものなので、一瞬

「いやポルノによこせオイ」

と、サイコモンスターペアレンツファンのワタクシは天月に対して深い憎悪を抱いてしまったのですが、曲を聴いてみると悔しさのあまり舌噛みきりそうになった。死ぬほど良いじゃねぇかよ。どこまでも耳馴染みの良い本間昭光の曲と天月の少年のような無垢さを持った歌声、そしてなにより新藤晴一の描く歌詞の世界観が異常にマッチして恐ろしいまでの狂曲へと仕上がっていた。

 

それにしてもポルノグラフィティ以外の提供曲における新藤晴一の歌詞を改めて読んでみると、その「視点」の動かし方の上手さに改めておののく。

例えば、坂本真綾に提供した『ループ』という曲の一節

澱みなく流れてく河に浮かべた木の葉で

海を目指して雲になって雨で降ろう

遠い君の近くで落ちた種を育てよう

違う場所で君が気付いてくれるといいんだけど

「時間」という概念を表すとき新藤晴一の目は顔にはついていない。遥か天空からの視点で物事を見ている。そして「距離」とはすなわち「時間」でもある。新藤晴一の視点が足元から離れたとき、同時に遠い「未来」にも目を向けている。

そして「〜だけど」と断定しない言い回しをするのも新藤晴一の歌詞の特徴のひとつ。たとえ自分の想いが届かなくても回り回ってどこかで「君」が気付いてくれればいいと願う。どこまでも献身的。それは「究極の愛」と言える。

こんなもん普通の言葉で書けば

「私が死んでもあなたの中に永遠に残り続ける」

という土ドラみたいな歌詞以外の何者でもないんですが、そのある意味「重たすぎる」愛の形を新藤晴一は「神視点」から描くことで普遍的なものへと昇華させてしまう。そこが身震いするほど恐ろしく、狂おしいほど美しい。

 

また、新藤晴一の歌詞を一言で表すのであれば「見える歌詞」。神視点から繰り出されるマキシムな視点から一気にミニマムな視点へとワープする。すると、まるで自分自身が体験した出来事かのように歌詞の映像がフラッシュバックする。新藤晴一のラジオ『カフェイン11』に作詞家の森雪之丞がゲスト出演した際、日記のような歌詞を書くミュージシャンについて

「ある意味晴一は(日記のような歌詞の)先駆者でしょ」

と言っていた。「日記のような歌詞」とだけ聞くと「陳腐」「単純」のようにマイナスな印象を持つ人間も多いだろうが、この言葉は新藤晴一という作詞家に対する最大級の賛辞だと私は受け取った。新藤晴一は物事を俯瞰的に捉える「神視点」を持ちながら、同時にごく身近な生活の中に存在する日記的歌詞、すなわち「自分視点」を巧みに使い分けられることのできる唯一無二の作詞家なのだ。

 

そしてその視点を使った歌詞のギミックが非常に巧みだ。関ジャニ∞に提供した『応答セヨ』。冒頭部分の

つまずいてばかりの僕を

君だけは笑わなかった

という歌詞を見てみると、この時点では「君」という存在に対し恋人、友達、家族などを思い浮かべるのだが、

応答セヨ流星 僕を信じてくれた遠い日の僕よ

この声が届くかい

サビで「君」というのは「夢を抱いた過去の自分」であり「未来の理想の自分」だということが明らかになる。視点が「つまづく」=足元(現在の自分)から「流星」=(過去→未来)へと移っていく。このある種の「謎解き」要素も新藤晴一の歌詞の面白さで、何度も聴くことにより新たな発見がある。

また、視点によって言葉の言い回しを変えるのも新藤晴一のテクニックでは多く使われる。視点が近ければ近いほど言葉は簡素で身近に、視点が遠ければ遠いほど難解で壮大になっていく。

 

声優の中島愛に提供した『水槽』でもそれは強く感じる。

紅に染まってく夕日が今日を過去にする

まだ見ぬ真新しい朝 孕んで闇夜よ深くなれ

冷たい夜風にも耐えよう

新藤晴一が「迷い」を歌詞にする時、やはりその視点は「神」になる。距離を超え時間を超え、概念を超える。

膝を抱え泣きじゃくるほどに 僕はもう弱くもないんだけれど

この世界がどんな人にとっても 素晴らしいものだと言えるほど強くはなれてないんだ

そしてサビで一気に視点が「自分」になる。新藤晴一の歌詞にはほとんど「助走がない」。しかしそこに一切の違和感はない。それは自分の足元も、遠い宇宙も、この世界に存在する全てのものがフラットに地続きだからこそ、視点が飛躍しても決して見ている世界はブレていないからだ。「自分視点」と「神視点」という2つの視点を一曲のなかで完璧に両立させ、壮大さと身近の共存、誰よりも突き放し、誰よりも寄り添う。それが新藤晴一の歌詞の凄さなのだと思う。

 

それらを踏まえて『キーストーン』の歌詞を読んでいくと、いかに完成度が高い曲かがわかる。

その猫は顎を上げピンと髭を伸ばし

路地裏を歩くたとえ腹ぺこでも 

星々煌めく夜空の下 猫は言うのさ

お前の望みは自由か?首輪か?孤独を愛せるか?

前述した2つの視点「自分視点」と「神視点」、それが同時に描かれているのがわかるだろうか。「猫を見ている自分視点」そして「猫(神)視点」。

 

にゃ〜あ

 

……

  

浮かび上がるキーストーン道を照らしてる

ダンスみたいなステップで

軽やかに飛び移れジャンプ

騒がしい未来はもうそこに

…サビでも2つの視点から見た景色が浮かび上がる。猫を見ている自分。軽やかにジャンプしている猫(神)。そしてこの猫とはイコール「自分」でもあるということがここでわかる。この謎が解けたとき、視点が一気に第3の「猫の視点」に集約される。バラバラだった視点がサビの最後にはひとつになる。まるでパズルのピースがハマったように腑に落ちていく。

 

高い壁の上では足もすくむだろう

進むしかないと何故か知っている

時々怖かったりするのかい?猫に聞いたら

心が軽けりゃくるりと回って上手く着地できる

「すくむだろう」と高い壁で足をすくませているのは他の誰でもない「自分」だ。結局迷っているのも答えを出しているのも自分。そんな誰もが抱える悩みや葛藤を軽やかに壁を飛び越えていく猫に重ねる。

 

にゃ〜あ

 

………

 

高層ビルの上から街を見下ろす

明日が来るのはどっちだ?

熱い想いなびかせて

ただ変わりゆく世界を感じてる

そもそも最初から猫など存在しないのかもしれない。この曲における猫はいわば自分にとっての「ハイヤーセルフ」。猫だけじゃなく「鯨」「鳥」など新藤晴一は動物をモチーフを使うことで心情をドラマチックに昇華させる。

 

闇に光ってる無数の目

呼びかければ歌い始める

闇に光る無数の目とは自分でありあなただ。誰もが未来に向かって進んでいく気まぐれな猫なのかもしれな

 

にゃ〜あ 

 

うるっっせえぇぇえええええええなァァアアアアア!!!!!人がマジメに考察してんのになにが「にゃ〜あ 」だコラァァァア!!!!あんま大人なめんなよ!?!?は!?なんだこの曲?!??!

天月ィ!?うるせぇ誰だ知らん!!!!!!!!歌い手?????「い」いらねぇだろカッコつけるな「歌手」でいいだろそれか「ちょっと人より点数取れるだけのカラオケ素人」って言え!!!!!!!あと髪切れ!!!!!!!!

King Gnuも藤井風もスピッツもヨルシカも椎名林檎もポルノグラフィティ岡野昭仁だった

「岡野昭仁 配信LIVE2021『DISPATCHERS』」 セットリスト

01. ROLL(ポルノグラフィティ)

02. Zombies are standing out (ポルノグラフィティ)

03. 愛なき… (ポルノグラフィティ)

04. 白日(King Gnu)

05. 優しさ (藤井風)

06. One more time,One more chance(山崎まさよし)

07. 空も飛べるはず(スピッツ)

08. Aokage (ポルノグラフィティ)

09. 旅せよ若人 (Fairlife)

10. ワインレッドの心(安全地帯)

11. だから僕は音楽を辞めた(ヨルシカ)

12. 丸の内サディスティック(椎名林檎)

13. 真夜中のドア~Stay With Me(松原みき)

14. 未来予想図II(DREAMS COME TRUE)

15. Shaft of Light(岡野昭仁)

16. 光あれ(岡野昭仁)

 

終わったあと「岡野昭仁」とは一体なんなんだろうかとずっと考えてた。もはや「歌手」「ボーカリスト」という言葉では収束しきれなかった。概念としての「岡野昭仁」を改めて真正面から感じたとき、感動超えて

「こわい」

とさえ思った。このままではマズい。自分のなかにあった「歌」の定義が揺らいでしまう。グチャグチャにされてしまう。岡野昭仁という男の恐ろしさは、岡野昭仁がその曲を歌った瞬間それからいくら原曲を聴こうが一生岡野昭仁の声を忘れることができなくなる「上書き力」。

King Gnu『白日』、藤井風『優しさ』、スピッツ『空も飛べるはず』、ヨルシカ『だから僕は音楽を辞めた』、椎名林檎『丸の内サディスティック』…今まで何千何万回と聴いた曲達が根底から覆される。耳と脳が岡野昭仁に侵食されてるのがわかった。原曲の記憶が塗り替えられていく。聴きながら「もうダメだ」と思った。

「原曲超えた」とかそういうアホな言い回しとはまったく別次元の意味で「ああ、これは岡野昭仁の曲だったんだ」そう思った。それと同時に今日岡野昭仁が歌った曲たちに対して「一生岡野昭仁が歌った曲として聴いていくんだ…」という事実に失禁しそうなほどの恐怖と興奮を感じた。

これからは常に原曲を聴くとき俺の脳内は「白日 feat.岡野昭仁」であり「優しさ feat.岡野昭仁」になる。『丸の内サディスティック』は『因島マゾヒスティック』になった。は?

 

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例えば、King Gnu『白日』。言わずもがな井口理と常田大希という全く声質の異なる2人のボーカリストでなければ成立しないこの曲を岡野昭仁がどう歌ったかというと、 

「最初から最後まで岡野昭仁で歌い続けた」 

これのみ。Aメロの井口パート「時にはァ…誰かをォ…」からBメロの常田パート「今の僕にはッ何ができるのッ?」の切り替えがこの曲の最大のキモであり難所、井口の聖(セイント)高音と、常田の剛(ギガント)低音のギャップに引っ張られて普通なら誰がどう歌おうが「King Gnuのモノマネ」になってしまう。が、岡野昭仁はAメロもBメロもCメロもサビも1ミリもブレることなく「岡野昭仁」で歌い続けるという離れ業をやってのけた。小手先のテクニック完全無視でただただ「岡野昭仁」という存在を叩きつけた。

Bメロでキー下げしない時点で脳みそが理解処理できずにバグり散らかした。こんな歌い方で成立してること自体が異常。普通ならどこかで音程がブッ壊れてもおかしくないのに耐震構造の一軒家かよとも言うべきゾウの安定感で白日を乗りこなしていた。コースを外れて場外に飛び出そうとしてるのを腕の力だけで押さえつけているかのような圧倒的なパワー。ウマ娘?ワシがウマボーカリストじゃいと吠えながら完全に「岡野昭仁の正解」で白日を歌っていた。白日に別の正解を出したのは、知る限り広瀬香美以来史上2人目。聴きながら「へっ〜〜?」とだらしなく口から屁をこくことしかできなくなった。

 

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例えば、藤井風『優しさ』。岡山弁を操る藤井風と広島弁を操る岡野昭仁の親和性は確定していて仮に今回カバーするなら西のアドバンテージを全開で活かせる「何なんw」「もうええわ」あたりだろうなと思ってた。が、選ばれたのは方言ゼロ、ド正面のスタンダードバラード『優しさ』。この瞬間、藤井風と岡野昭仁の殴り合いが始まった。

同じ歌詞、同じメロディなのに歌う人間が違うだけでここまで受ける印象が変わるのかと衝撃で顔が『HELP EVER HURT NEVER』のジャケットになった。藤井風の『優しさ』は相手をフワッと包み込むブランケットのような歌唱だったのに対し、岡野昭仁の『優しさ』は相手を飲み込んで自分と一体になることで優しさを体現するという魔王の能力のような歌唱。今回の岡野昭仁ソロプロジェクトのコンセプトが「歌を抱えて歩いていく」なんですが、この瞬間は「歌を押し倒して抱きまくる」だった。

男女新旧問わず次から次へと岡野昭仁に吸収されていく。この世にある全ての歌は完全に「岡野昭仁が歌ったか」「岡野昭仁がまだ歌っていないか」に分けられた。いや、そもそも「歌」とは岡野昭仁に歌われることによってはじめて「歌」になるのではないかとすら思う。まだ歌にならざる曲たちよ、岡野昭仁に歌われる日を願って眠れ。 

 

げに恐るべきは岡野昭仁はソロ活動で得た全てを「ポルノグラフィティに還元する」と言い切ったということ。わかるか?King Gnuも藤井風もヨルシカもスピッツも椎名林檎もドリカムもいずれポルノグラフィティになるんだよ。

「名探偵コナン推理ガチ勢」だった僕を変えた灰原哀

小学生の時『名探偵コナン』の「推理ガチ勢」だった。

 

被害者の死因、死亡推定時刻、現場の状況、容疑者の名前と職業、被害者との関係性をすべて把握し、犯人が誰かコナンの目線に立って全力で推理した。おかげでコナンが小五郎を眠らせる前にはだいたい犯人がわかってた。コナンよりも早くドヤ顔をすることが生きがいだった。俺にはネクストコナンズヒントなんて必要なかった。名探偵コナンという作品の「事件」「推理」の部分にだけ、のめり込んでいった。

 

そういうガチの「ミステリーもの」として名探偵コナンを楽しんでいた俺に、突然吹いた風。それが「灰原哀」だった。

あれは忘れもしない1999年、小学4年。第129話『黒の組織から来た女 大学教授殺人事件』。あの衝撃は今でも忘れられない。

あの頃の俺は完全に「江戸川コナンそのもの」だったので、小学校が退屈でしょうがなかった。突然、転校生として現れた彼女は「チッ、ま〜たガキどもとくだらねぇ授業受けなきゃいけねぇのかよバーロ…」とため息をついてた俺(コナン)の席の隣になにも言わず座り一言、

 

「よろしく…」

 

一撃で心臓を撃ち抜かれた。それは灰色の弾丸。彼女の氷のように冷たい目と、その奥に隠れた悲しみ。「守りたい」そう思った。

…それからというもの、完全に俺は「江戸川コナン」ではなくなっていた。いや「最初から江戸川コナンではなかったことにようやく気づいた」と言うべきか。そう、俺は江戸川コナンなどではなかった。ではいったい誰なのか。

 

僕は「光彦」という一人の恋する男だったのだ。

 

灰原哀に出会い、自分が光彦だということに気がついてからは満開の桜のような日々だった。彼女の心の氷が回を追うごとに少しずつ溶けていくたび、とても嬉しい気持ちになった。「事件」?「推理」?そんなものはどこか遠くに消え去っていた。彼女以外、誰がどうなろうがどうでもよかった。灰原さんが活躍する回は神回、それ以外は僕にとってはクソ回だった。

だが、改めて光彦になって光彦の視点で『名探偵コナン』という作品に触れ「灰原哀」という一人の女性を見つめると、頭がおかしくなるほどに痛感してしまう。

 

「灰原さんには僕じゃない」

 

灰原さんがあの日僕たちの前に現れてから今にいたるまで、一貫して灰原さんはコナンくんしか見ていない。いや、正しくはコナンくんだけを「対等に見ている」。僕や元太くん 、歩美ちゃんを見る目線は、友達や恋人というよりもむしろ「母親」の目線に近い。僕は灰原さんを「守りたい」のに、実際は灰原さんに「守られている」現状が悔しくて仕方なかった。

「大丈夫…?」

と微笑む彼女の優しさに触れるたび、泣きたくなる。

しかし、コナンくんだけは違う。灰原さんがコナンくんを見る目は僕たちに向けられているものとは明らかに別物だった。時には、一緒に事件を解決する「相棒」のような眼差しで、またある時は苦楽を共にする「夫婦」のような眼差しで灰原さんはコナンくんを見つめている。

灰原さんとコナンくんは時々、僕たちを置きざりにして二人だけの世界に入ることがある。僕には想像もつかないが、二人の間には僕たちの知らない大きな「秘密」があり、僕たちでは太刀打ちできないほどの強い「信頼」があるのだろう。それが悔しくて仕方ない。

 

でも、僕は知っている。灰原さんが僕のことをなんとも思っていないと同じで、コナンくんもまた、灰原さんのことをなんとも思ってないということを。灰原さんの中にコナンくんしかいないように、コナンくんの中には「毛利蘭」しかいない。

そして、そのことを誰よりもわかっているのが灰原さん自身だということも、僕は知っている。そう、灰原さんはコナンくんを見ていたんじゃない。コナンくんに自分を見てほしかったんだ、と。

 

だからこそ、コナンくんが灰原さんに対して思わせぶりな態度を取ることが、最初は本当に許せなかった。あのムダにデカいメガネを叩き割って蝶ネクタイで首を締めてやろうかと何度思ったかわからない。

なにが「あれれ〜」だよ、僕たちの前では威張り散らしてるくせに大人の前でだけ子供ぶりやがって。なにが「ごらんのスポンサーのていきょうで!おおくりします!」だよ。ふざけるのもいい加減にしろ。

 

…でも、数々の事件を一緒に解決していくにつれ、彼の正義感はまぎれもなく「本物」なんだということに気がついた。それだけは認めざるを得なかった。灰原さんが彼に惹かれる理由がわかる気がした。彼には未来を変える力があった。でも僕は…

 

コナンくんはいつもなにかにつけて、こう言う。

 

「真実はいつもひとつ」

 

…僕にとっての…真実…?

 

灰原哀という「難事件」を解決するネクスト光彦ズヒントはまだわからない。愛を伝える勇気もない。曖昧にはぐらかすだけのdays 泳ぐeyes そんな自分が本当にふがいない倉木麻衣シークレットオブマイハート

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今人気の俳優が昔めっちゃ観てたドラマに脇役で出てたの気づかなくて悔しくて血吐く

いま超人気があってメインのド真ん中にいる好きな俳優が、その俳優を認識する前に観てたドラマに脇役で出てたのを後から知って、悔しくて口から血吐いてる。

 

例えば11年前、2010年にTBSで放送されていた学園ドラマ『ヤンキー君とメガネちゃん』(通称:ヤンメガ)。主演は成宮寛貴、仲里依紗。他にメインキャストとして川口春奈、本郷奏多、小柳友、鈴木亮平…

このドラマめちゃくちゃ見てたんですよ。成宮寛貴のカッコよさに憧れすぎて、当時は24時間つねに「アヒル口」やってた。そのくらい夢中になったドラマだっつーのに…俺は…まったく気がつかなかった

 

これはクラスメイト役の座席表なんですが…

 

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TBS 「 ヤンキー君とメガネちゃん 」

 

3列目の…左から2番目と…3番目…

 

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おまっ……なかむ……?まみ……?

 

まだだ…2014年の三浦春馬主演ドラマ『僕のいた時間』でも家庭教師のアルバイトをしていた三浦春馬の生徒役で出演していた小学生女子、それが

 

浜辺美波(13)

 

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最近ドラマ見返して気づいた瞬間に画面叩き割った。今やテレビに映るだけでこの世の全ての光が集まるかのような輝きを放つ大天使を当時まったく気にも留めてなかった俺。散らばった破片で自分の膵臓かっさばきたかった。

あと、2008年のドラマ織田裕二主演『太陽と海の教室』っつーマジで周りで誰も観てなかったドラマ。そこに出演していた岡田将生の幼少期の役を演じていたのが、何を隠そうあの「北村匠海」でしたし、生徒役になんかまた

「中村倫也」

いました。オメーはどこにでもいるなァ倫也ァ

 

俺は、まったく、気がつかなかった

 

いまや見ない日はない鬼の人気を誇る俳優達が、10年前は2番手3番手どころじゃねぇ、10番手11番手のゴリゴリの脇役をやっていたという衝撃と、当時「それにまったく気づかなかった」という自分のアホさに頭がおかしくなるかと思った。お前はいったい何を見てきたんだと。未来の大スターをまるで気にも留めなかった俺の先見の明のなさ、こんな眼球今すぐ取りたい。

なによりムカつくのが、役者を認識してないだけならまだしも「実はこのドラマ出てたんですよ!」ということを突きつけられて最初に思ったのが「あの役で?マジ?」という嬉しい驚きじゃなく、

 

「え…?そんな役の奴いた?」

 

というシンプルな忘却。単純にバカ。記憶力が致命的にねぇ。しょせん俺はドラマを観ているようでいて、物語の中心にいるほんの数人のキャストにしか目に入ってなかったという事実に全身から血が吹き出そうになりました。なにがアヒル口だよ…

 

戻りてぇ…11年前に戻って目の前のダイヤモンドにばかり気を取られて、その隣にいる原石を見ることすらしなかった過去の自分をぶん殴りたい。成宮だ、仲だ、とのたまう俺のまぶたの裏に「間宮祥太朗」「中村倫也」の名前を刻んでやりたい…

「成宮くんホントカッコいい!」「本郷奏多くん大好き!」「仲里依紗超かわいくね?」「俺はやっぱり川口春奈かな!」と主演たちを褒める若僧のとなりで、

 

「間宮と中村だ…確かな演技力のポテンシャルがありながらも主役を引き立てピエロになることのできる間宮と中村があってこそのヤンメガだ……」

 

とか言いたかったし、

 

「間宮祥太朗…中村倫也…今は地味な役どころだが、わたしにはわかる…10年後…彼らは確実に日本中を騒がせる役者になっているだろう…」

 

とか言いたかった。「11年前から間宮祥太朗も中村倫也も認識してる俺」としての人生を歩みたかった。合コンとかで中村倫也好きの女子にドヤってドン引きされたかった…

古いファン、いわゆる「古参」は新規のファンからしたらアピールがウザくて嫌われがちですけど、正直めちゃくちゃ羨ましい。今の俺からしたら誰がなんと言おうと「歴=正義」。言いたい…俺も「King GnuインディーズのSrv.Vinciから知ってた」とか「霜降り明星大阪時代から絶対売れると思ってた」とか「呪術廻戦マンガの1話から人気出ると思ってた」とか言いてぇ…

 

あー、もうこの際誰でもいいわマジで誰でもいいから古参アピしてぇ…たとえば50年後、ヨボヨボのジジイになった俺は、62歳になった「寺田心」をテレビで見て、

 

「ワシはな…50数年前に寺田がCMで便所の雑菌をやってたころから…ずっと寺田に目をつけてきた…あのころからワシは確信しておったわ…ヤツはこの日本を背負って立つ人間になるとな……」

 

とか言いてぇ……

 

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え???心くん今「13歳」??????ウソだろ???俺の中ではまだ「6歳」なんですけど????時間の概念が狂い始めている

はじめての映画館レイトショーが最高で絶頂した

「映画館は昼に見るもの」だとずっと思ってたんですけど、生まれてはじめて平日の夜に映画を見る「レイトショー」なるものに行ったら最高すぎて絶頂した。完全に価値観変わった。

 

まず「人がいねぇ」

 

ほんとに今から映画見れんの…?って疑うくらい昼と比べてガラガラでチケット買うとき怖くてしょうがなかった。受付の顔なんて気抜けて半分死んでるしよ。そして料金のバグ。や、安!?なんで昼より500円も安いの?マジで合法?闇の映画館かここ?

そして決定的に違うのは観客たちの「目」。全員の目がバッキバキにキマってるんですけど…これからこのメンバーで殺し合い始まんの?みたいな雰囲気出してて、ジャングルの騒がしさの昼の映画館からは考えられん静寂。映画館っていうかほぼ寺。これからエンタメ楽しもうって奴らのテンションじゃねぇ「坐禅」のテンション。

正直マジで居心地悪くて映画観ないで帰りたくなったんですけど、最初は昼のテンションでギャグ漫画顔でヘラヘラしてた俺も、他の観客の「映画とは作品と俺たち観客との勝負」と言わんばかりの目つきに当てられて、シアタールームに入るころには劇画タッチになってた。なんだこれは

 

…観客は自分を含めてわずか5人

 

全身黒ずくめでサングラスをかけたエージェントのような男性、彫刻のように美しい佇まいの女性、殺し屋のように冷たい目をした青年、映画仙人のような老人、そして猫背の俺…

 

「戦士」

 

まぎれもなく戦場におもむく戦士だった。「映画」という楽園を目指し進むシネマソルジャーたちがそこにはいた。年齢も、生い立ちも、育った環境も、なにもかもが違う5人が「一本の映画を観る」という共通の目的のために集まっていた。「俺たちを映画化しろ…」とすら思った。

そもそも…考えてみれば、平日のこんな夜に映画館に行く人間は明らかに普通じゃない。きっと誰もが心に闇を抱え、カルマを背負い、逃げるようにしてこの場に迷い込んだに違いない。俺もそうだ…(会うはずだった人にドタキャンされてマジでやることなくなったから来た)

そして、その極限状態からなのか、昼の映画館とは「集中力」がまるで違った。いや、自宅ですらこんなに画面に集中したことはねぇ。レイトショーで映画を観るという行為はもはや映画と観客との「死合」だった。

 

本編前に流れる新作映画予告も違う。少女漫画原作の100万回やりつくされたコテコテ恋愛モノも、小説原作の「あなたはすでに騙されている!」系の安いサスペンスも、1回も見てないテレビドラマの映画化も、予告ですでに滑り倒してるコメディ映画も、趣旨のよくわからんアニメ映画も、すべてが「歴史に残る超大作」に感じた。絶対全部見に行こうと誓った。そして「NO MORE 映画泥棒」…思えば、こんなにも集中して「NO MORE 映画泥棒」を観たことなんてなかった。はじめて映画泥棒の顔をちゃんと見たかもしれない。映画泥棒はとてもクールな顔つきをしていた。「アイツってこんな顔できるんだ…知らなかった…」と自分の気持ちに素直になれない映画泥棒の幼なじみになった。

 

本編が始まってもそれは変わらなかった。上映中、作品から出る音以外を感じることは一度たりともなかった。

女「ねェ〜今のってどういうことォ…?」男「たぶんこれからアイツ死ぬぜェ…」ベラベラと口縫い付けたろかバカップルも、暗いシリアスなシーンでポップコーン「ャクゥ…シャクゥ…シャクゥ……」口ん中に石詰めたろか男も、「ラインッッッ!!!ラインッッッ!!!ララララッッrrrrラインッッッッ!!」スマホぶち壊したろか女もここには存在しない…こ、ここが「真」の映画館…?

当然エンドロールで席を立つ人間も誰ひとりとしていなかった…全員が余韻という名の極上風呂に浸かっていた…

 

上映終了後…皆どこか晴れやかな目をしていた…お互いがお互いを讃え合うような、祝福するような、そんな空気がシアタールームを包んでいた。日々の辛い出来事など、どこかへ消え去っていた。

こんなにも映画というものに没入したことはなかった。これが「作品に入り込む」ことなのかと、自分が映画に出演している気にすらなった。はじめて「本当の映画を観た」と思った。「見る」ではなく「観る」であり「視る」だった。そして同時に、なぜ今まで誰もレイトショーの素晴らしさを教えてくれなかったのかと己の運命を呪い、泣いた。

 

…「充実」「最高」…そんな言葉が心を満たした帰り道…終電に乗りながら、思いました。

 

観た映画死ぬほど面白くねぇ

スラムダンク『煌めく瞬間に捕われて』を歌ってるのは「大黒摩季」だとずっと思ってたのに「MANISH」だった

煌めく瞬間に捕らわれて

Amazon | 煌めく瞬間に捕らわれて | MANISH

今まで、スラムダンクの主題歌『煌めく瞬間(とき)に捕われて』を歌ってるのは「大黒摩季」だと信じて疑わない人生を25年以上歩んできました。

 

が、実は歌っているのは大黒摩季でもなんでもなく、

「MANISH(マニッシュ)」

というまったくの別人だということを先日はじめて知り、頭がおかしくなった。俺の25年が完全に「無」と化した。

 

いや『煌めく瞬間(とき)に捕われて』を歌っているのはMANISHだということは知っていた。ただ、MANISHは大黒摩季だと思っていた。

MANISHとは大黒摩季の別名義、a.k.aであると、荒井由実が松任谷由実であるように、上地雄輔が遊助であるように、綾小路翔がDJ OZMAであるように、ともさかりえがさかともえりであるように、大黒摩季もまたMANISHであり、MANISH=大黒摩季であると。

しかし、そうではなかった。

大黒摩季はMANISHではなかった。ということは、MANISHは大黒摩季ではないということになる。つまり、

 

大黒摩季≠(ノットイコール)MANISH

 

ずっと母親だと信じてた人間が実は赤の他人だった時のような衝撃を受けた。自分のなかにあった「価値観」という瓦礫の山がガラガラと音を立てて崩れ落ちた。心のパズルを埋めていた大黒摩季というピースがポッカリと抜け落ちてしまった。

 

大黒摩季

 

思えば、俺の人生は大黒摩季の連続だった。友達のお母さんがどっからどう見ても大黒摩季だったり、はじめて一人暮らしをした行きつけのスーパー店員がどっからどう見ても大黒摩季だったりと、つねに「振り返れば摩季がいる」状態だった。それだけにとどまらず、付き合っていた彼女の通っていた幼稚園が「ガチの大黒摩季」も通っていた幼稚園だった。歩む道の先にいつも大黒摩季がいた。

日本に春夏秋冬という「四季」があるように、俺には「大黒摩季」という季節があった。春に桜を見て夏に花火を見て秋に紅葉を見て冬に雪を見るように大黒摩季を感じていた。俺は大黒摩季だった。

 

そんな大黒摩季がMANISHじゃなかった。このまぎれもない真実と、自分が「命拾い」したという現実に汗が止まらなくなった。

 

…今回は「大黒摩季」が「MANISH」だったからまだ良かったものの、状況が違えば「水」だと思って飲んだものが「毒」だった可能性すらある。一歩間違えれば、そこに「死」が待っていた。思い込み、傲慢、過信、慢心、そんな己の弱い心が大黒摩季をMANISHに、MANISHを大黒摩季にした。

 

謝りたい

 

大黒摩季にも、MANISHにも、手をついて謝りたい。「すいませんでした」と、大黒摩季をMANISHだと、MANISHを大黒摩季だと思って本当にすいませんでしたと、大黒摩季とMANISH、どちらにも謝りたい。そして言いたい「ありがとう」と。過ちに気づかせてくれて、救ってくれてありがとうと。

 

そして心の底から「知りたい」と思った。大黒摩季のことはもちろん、MANISHのことをもっと知りたい。MANISHが大黒摩季じゃないのならば、MANISHとはいったいなんなのか。誰なのか。その真相を探るべく、私はMANISHのウィキペディアへと向かった…

 

MANISH(マニッシュ)は、1990年代に活動していた日本の音楽グループで、ビーイング系の代表的グループ。

メンバー:高橋美鈴(ボーカル)西本麻里(キーボード)

MANISH - Wikipedia

 

まず二人組であるという事実に足が震えた。MANISHは個人の名前ではなかったのだ。大黒摩季は一人だがMANISHは二人。俺はMANISHのことも大黒摩季のことも、なにひとつわかってなかった。

 

…だが、MANISHのボーカル・高橋美鈴のプロフィールを見て、涙が止まらなかった。

 

パンチの効いたパワフルなボーカルが特徴で、アップテンポな歌を得意とした。同じビーイングの大黒摩季と声質やボーカルスタイルが似ており、大黒はコーラス参加や歌詞提供などもしている

 

いた

 

MANISHのなかに大黒摩季は、いた

 

MANISHは大黒摩季ではないが、MANISHはほぼ大黒摩季だった。すなわち、

 

MANISH≒(ニアリーイコール)大黒摩季

 

ということは、以下の方程式ができあがる。

 

「MANISHは大黒摩季はではないがMANISHははぼ大黒摩季」

 

つまり、

 

MANISH=大黒摩季≠MANISH≒大黒摩季

 

目の前を覆っていた闇が晴れ、大黒摩季という光が差した。たしかにMANISHIのなかに大黒摩季はいたし、俺の心の中にもまだ大黒摩季がいた。

 

大黒MANIだった。

  

これで、言える。胸を張って言える。

 

「スラムダンクの主題歌『煌めく瞬間に捕われて』を歌ってるのは大黒摩季じゃなくてMANISHという別グループなんだけど、MANISHのなかに大黒摩季はいるんだよ」

 

と…よかった…ほんとうに…よかっ

 

高橋美鈴、西本麻里、石沢晶、土屋さゆりの4人がアイドルグループ・DALI(ダリ)として、シングル「ムーンライト伝説」(美少女戦士セーラームーンOP曲)でデビュー。直後にグループは解散。しかし、DALIから高橋と西本を選抜し、MANISHを結成。

 

MANISHが…元DALI…?

 

セーラームーン主題歌「ムーンライト伝説」を歌っていたDALIが、のちのスラムダンク主題歌「煌めく瞬間(とき)に捕われて」を歌うことになる大黒摩季じゃないMANISHで、MANISHは大黒摩季ではないが、ほぼ大黒摩季…?

 

 

ということは、つまり、

 

 

MANISH=大黒摩季≠MANISH≒大黒摩季>DALI

 

 

つまり、大黒摩季は、DALI…?

 

 

わからない…もうなにもわからないよ…俺の人生は、煌めく摩季に捕らわれてる

ポルノグラフィティ岡野昭仁がカバーした『猫』はもはや『虎』

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ポルノグラフィティ岡野昭仁が『猫』カバーしてたんですけど猫というより、もはや虎。

単なる「カラオケ」や「歌ってみた」じゃない、岡野昭仁が歌うことで既存の曲がまったく別の色を帯びて、岡野昭仁に染まっていく。まぎれもなく「カバー」、中途半端な歌い手Youtuberを片っぱしからぶん殴っていく破壊力。

岡野昭仁の歌う『猫』を聴いてると、原曲が持っていた「青春の儚さ」「若さ故の過ち」みたいなものとはまったく真逆のものを感じる。長年人生を連れ添った人との永遠の別れ。こう言うと身もフタもないですが「相手絶対死んでる」。だからこそ

「猫になったんだよな君は」

「猫になってでも現れてくれ」

の言葉の重力に聴いてるこっちが潰されそうになる。「君」に対する「猫になってほしさ」が尋常じゃない。猫=生まれ変わりだろとまで思ってしまう。ワンフレーズワンフレーズの噛み締め方が血流してんだろってくらいに重たい。出だしの「ゆ…」から声の吸引力に耳が引きずり込まれる。ブラックホールボイス。ラストの「僕はァ…またァァア…!幸せでェェエ…」は完全に虎。強くて優しい虎だった。

 

冒頭のコメントで

「最近の方は本当に歌が上手」

と北村匠海の歌声を褒めていて、相変わらず若手へのリスペクトと己への謙虚さが仏超えて釈迦なんですが、ただ、あえて言わせてほしい「本当に歌が上手」……?はぁ…?

 

マジで「こっちのセリフ」

 

こちとら『アポロ』の「ぼ」を聴いた瞬間から20年間毎日岡野昭仁に対して「いや高級スピーカー喉に移植してます?」と言いたくなるくらい歌上手いって思ってたし、最近はもはや「上手」とかそういうレベルじゃねぇんだよ。

音程が取れるとか音域が広いとか、そういう技術的なところとはまったく別の次元で「歌がうまい」。天を突き刺すキレキレの高音と、フワッフワの毛布のような低音。曲によって雲のように声質を変えられる柔軟性がありながらも、どんな曲のどの部分からどう聴こうが一瞬で「岡野昭仁」だと認識できる個性の両立。マネしたくてもマネできない、他のボーカリストじゃない「その声」でしか味わうことのできない快感がそこにはある。

ある意味、親の声よりも心に響く声。バカな言葉でいえば

「歌詞がめちゃくちゃ聞き取りやすい」

言葉が直接入ってくる感覚。どんなにメロディが複雑だろうがスピードが速かろうが関係なく嫌というほど言葉が脳に届く。

それがバラードならなおさらで、歌詞が本来伝えようとするメッセージ以上のものを聴く側に感じ取らせてしまう。岡野昭仁の声には「表現力」って言葉だけじゃ片付けられない、どんな歌詞の世界観でも全て包み込んで空へと放ってしまうような「力強さ」と「広さ」がある。

 

それは岡野昭仁が21年間ポルノグラフィティとしてあらゆるモチーフの曲を歌ってきたことが関係してると思っていて、相棒の新藤晴一という男は平気で性別も年齢も、人間であるということすら超えた視点での歌詞を書いて岡野昭仁に歌わせる。

その究極系が『愛が呼ぶほうへ』。人間だとか動物だとかをモチーフにした曲は星の数ほどあっても「愛」そのものになって歌った経験があるボーカリストは岡野昭仁しかいないと思うんですが、マジで最初に歌詞があがったとき昭仁はどういう反応したのか知りたいです。

 

 

晴一「次の曲の歌詞これなんじゃけど」

昭仁「…僕を…知っているだろうか…いつも…傍にいるのだけど…マイネーム…イズ……あの…新藤…?…この「My name is love」ってなに……?」

晴一「だからそのままの意味よ」

昭仁「そのまま…?」

晴一「この曲を歌ってるお前は『愛』じゃ。お前は人間じゃない、愛になれ、あきっと。リピートアフターミー、マイネームイズラブ」

昭仁「……マイネーム、イズ、ラブ」

 

 

みたいな感じでしょうか。けっこう普通に受け入れてそうで怖いですね。「愛」になったんだよな君は…