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助詞でわかる!「星野源」歌詞講座

僕ほど長く星野源をやっていると、もはや顔や声だけでなく「文字」を見ただけで星野源かどうかわかるようになります。

僕がもしもデスゲームの主催者になって日本中のミュージシャンと作詞家を全員集めて

「僕をテーマに歌詞を書いてください」

と命令できるとして、誰がなにを書いたのかわからない状態で提示されても一発で「これは星野源が書いた僕」と当てられる自信があります。おそらく最初のワンフレーズの時点でわかる、それくらい僕は星野源であり、星野源の歌詞には名前が書いてあると言っても過言ではありません。

星野源の歌詞において唯一性、変態性が色濃く出ているのが助詞、いわゆる「てにをは」です。星野源が操る助詞「助詞野源」を学べばあなたも星野源の一部になることができます。

『助詞でわかる!「星野源」歌詞講座』、それではやっていきましょう。

 

「に」

助詞野源の「に」は曖昧なものにハッキリと輪郭を与えます。

くだらないの中に愛が 人は笑うように生きる/くだらないの中に

間違う隙間に 愛は流れてる/Pair Dancer

「くだらない」「間違う隙間」どちらも「愛」を語るにしては矛盾とも言える言葉です。それらを繋ぐ助詞を「で」や「から」ではなく「に」とすることで主語が愛ではななく「くだらない」「間違う隙間」になりその矛盾が逆転します。奥底にあるフワッとしていたものが形作られる感覚になり、「言ってることよくわからんけど…そうだよな!」と歌詞に恐ろしいまでの説得力を与えます。

また『くだらないの中に』の「人は笑うように生きる」は星野源が星野源たるゆえんが凝縮されています。普通、文章の意味だけを考えれば「人は笑い”ながら”生きる」のほうが通じるでしょう。

しかし、星野源は「笑うように」と直喩を用いて、生きる→笑うではなく、笑う→生きる、生きているから笑うのではなく、笑うからこそ生きる、つまりただ生きているだけでは笑えるような楽しいことも嬉しいことも起きない、でも笑うように生きていればなにか変わるかもしれないという願いを込めていると感じました。僕はこのフレーズは聴くたびに、星野源が言う「クソみたいな世の中」に対する「抗い」すら感じるのです。

エッセイ『よみがえる変態』のあとがきで星野源はこう綴っています。

世間を面白くするには、世間を面白くしようとするのではなく、ただ自分が面白いと思うことを黙々とやっていくしかないのだと。 

ウンコしてウォッシュレットを使うんじゃなく、ウォッシュレットを使いたいからウンコするんだ。僕はそうしてます、あなたはどうですか?

 

「を」 

助詞野源の「を」は、その対象の当たり前を当たり前にしません。

夫婦を超えてゆけ/ 恋

数ある楽曲の中でもっとも代表的とも言えるこのフレーズ。初めてこのフレーズを聴いたとき、どんな感想より先に

「をォォオオ!!?!??!?」

と叫びながらゲロを吐きました。「夫婦」と「越えてゆけ」のあいだに「を」を入れる作詞家が日本で何人いるでしょうか。

普通であれば、これから起こりうる困難や悲しみを夫と妻で越えていく意味を込め「夫婦”で”超えてゆけ」というフレーズにするでしょう。おそらく一時代前の感覚であれば確実に「で」になっていたはず。しかし助詞野源は夫婦を「超えるべき対象」と捉え、夫婦だけじゃない多種多様な恋愛スタイルを全て肯定します。ゆえに「夫婦”を”超えてゆけ」なのです。

餃子の中身はニラと豚肉だけだと決めつけるな、チーズが入ってたっていい、あんこが入ってたっていい、むしろ具なんざいらん、皮を折り紙のようにして飛行機を作って大空へ飛ばすんやワイは、そう星野源は言っているのかもしれません。

僕はこのフレーズを聴いた瞬間「夫婦って超えるものだったのかよ…」とまったく新しい概念を提示された衝撃で星野源がなによりも恐ろしくなり、イスから転げ落ち、気がついたら自分自身が星野源になっていました。

他の楽曲でも存分に「を」のトリックは使われています。

二人をいま歩き出す/不思議

「二人”で”いま歩き出す」とするのがセオリー。星野源は「人は一人」だとことあるごとに言います。人間は一人で生まれ一人で死ぬ。その前提があるからこそ「二人」が特別なものになる。だからこそ「を」なのです。

さよなら 目が覚めたら君を連れて 未来を今 踊る/Week End

これも「未来”で”今 踊る」ではなく「を」とすることで、それぞれの未来を強調しています。最初から2ではない、1と1が重なり2になると常に星野源は歌い続けているのです。

 

「も」

助詞野源の「も」は宇宙よりも遠く離れたものを繋ぎます。

遠い場所も繋がっているよ/Family Song

繋がってることがまるで当たり前のような言い回し。たとえ地上にいなかろうが、近かろうが遠かろうが距離、時間、生死すら関係なく想い合えば繋がっているという燦然たる事実が「も」に込められているのです。

飯を食い 糞をして きれいごとも言うよ/ばらばら

「きれいごと”を”言うよ」とせず「飯」「糞」と「きれいごと」を「も」で繋ぐことでかけ離れた言葉と言葉に思えるこれらは地続き、なにも離れていない隣同士あなたとあたしさくらんぼなのだとわれわれに突きつけてきます。

 

「は」

助詞野源の「は」は言葉のイメージを大きく変えます。

大人のふりをした 日々は繰り返した/KIDS

「日々”を”繰り返した」ではなく「日々”は”繰り返した」とすることでどこか他人事のイメージを受けます。つまり大人のふりをしている自分に対する違和感、それが「は」に込められているのではないでしょうか。大人のふりをしているのは本当の自分ではない、君といるときの子供になる自分こそ本当の自分なのだと。

日々は動き 今が生まれる/日常

「日々”が”動き 今”は”生まれる」でも成立します。しかし助詞野源は常に「日々」を主語にする。今の中に日々があるのではなく、日々の中に今がある。泣こうが喚こうが今は常に生まれ続け強制的に未来へ進んでいくことを悲観的になるのではなくただただ「事実」として捉えているのです。

僕らは消える愛だ/Snow Men

「僕ら”の”消える愛だ」ではなく「僕ら”は”消える愛だ」とすることで、愛が消えるのが決まっていたかのような、いやそもそもそこに愛なんかなかったかのような印象を受けます。逆アイフルです。

例えば、生卵が床に落ちれば最悪です。しかし「生卵が床に落ちた」では単なる不注意ですが「生卵は床に落ちた」にすれば生卵が床に落ちるのは最初から決まっていたということになるので僕に責任はありません。

「の」を「は」に変えるだけ、たった一文字で曲全体の意味がまるで別のものになるのです。これが助詞野源マジック。

 

 

…これらをふまえ、星野源の助詞に耳をかたむけて曲を聴き続ければ、いずれ「ミュージシャンの書いた歌詞のひらがなが暗闇の中から一文字ずつ浮かびあがる」という状況においてもすぐに星野源がわかるようになります。さぁ、星野源をいま歩き出しましょう。

講座は以上になります、ご精読ありがとうございました。次回は『好きな作品でわかる!星野源FANZA講座』です。お楽しみに。