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星野源『光の跡』により、俺のSPY×FAMILY愛、二度目の敗北

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俺のSPY×FAMILY愛が『喜劇』に続いて、二度目の敗北。負けた、圧倒的に負けた。今まで俺はSPY×FAMILYを読むたび自分のことをロイド・フォージャーだと思ってましたが、まったくもって間違いだった。俺はロイドではなかった。ただのキショいオッサンだった。

こんな曲を作られたら、こんな想いをぶつけられたら、俺はもうSPY×FAMILYを読むことも観ることもできなくなる。もう一生「アーニャかわいい養いたい」とか言えません。本日をもってSPY×FAMILY引退します。さようならアーニャ。先立つちちをゆるしてくれ。

 

くそ、くそ。星野源毎度毎度オールウェイズ名曲製造しやがって、最近はもう逆に新曲出すたび「そろそろ微妙曲来るだろ来い微妙曲もう微妙曲でもいいよ十分だよ今までありがとなわかったらタイアップの半分でもポルノにあげろ同じアミューズの先輩だろ」とか思ってるのに一発でも聴いたら最後、

 

「源さぁアアアアア〜〜〜〜ん♡すごぉオオオオオオ〜〜〜〜い♡」

 

って夢グループの社長の横にいる謎の女のリアクションしかできなくなるのいつまでやればいい?俺は、俺の人生はいったい。

 

星野源「人はやがて消え去るの」

 

しかもここ数年の星野源、初速があまりにも速い。一行目から「星野源の最大値」を叩き出してくる。速すぎて俺にはもう星野源の姿すら見えない。どこですか源さん、どこ。

いやもしかしたら星野源は、どこにもいないのかもしれない。星野源とは一人の名前ではなく、人々の「こんな曲があったらいいな」という星への願いが作り出した希望の源、それを「星野源」と呼んでいるだけなのではないだろうか…

などと、意味不明なことを考えて眠れなくなるほど、星野源が一行目から星野源すぎた。『喜劇』の「ふざけた生活は続くさ」から「人はやがて消え去るの」に繋げて「死」「別れ」を「光の跡」と表現する言語能力、優しい言葉の中に

「意味なく生きては」

「すべてを残さずに綺麗にいなくなり」

「終わりは未来だ」

「ただ朽ちるしかないこの時を」

と、抗うことのできない現実に真正面から向き合っている。どこまでも地獄の中にある日常を星野源は描いている。その上で

「ほら 出会いは 未来だ」

と言い切って曲は終わる。徹底的に「終わり」「絶望」を描き切るからこそ最後の最後に来る「始まり」の言葉に説得力が生まれ、涙する。

古いアルバムをめくるような、90年代の名曲を思わせるメロディの懐かしさ、音そのものが家族を表していた。平成生まれの俺はイントロが鳴った瞬間、早々にこの世から成仏させられた。星野源のことはこれから音楽界の陰陽師、安倍晴明と呼ばせていただきたい。

切なさの中にある温かさ、心地良さ、これはもはや胎内。聴く度に子供の頃に戻る、聴くベンジャミン・バトン数奇な人生。

 

そして気付かされました。俺は冒頭で自分のことを「ロイドではなかった」と言いましたが、では俺という存在はなんなのか。その答えは曲の中にありました。2番Bメロの一節を引用したい。

肩 寄せたまま

願うことは

黄昏の中に

黄昏、日が落ちていく夕暮れ、時の流れと残酷さ。「終わり」「死」に向かうその中にしか幸せは存在しないと歌っています。

「黄昏」とは、ご存知のとおりSPY×FAMILYの主人公ロイド・フォージャーのコードネーム。この曲は黄昏の視点で歌われた曲という側面もあるのかもしれない。つまり、この曲の中では星野源こそがロイドなのでしょう。

では、いったい誰に宛てられた曲なのか。そして、この曲を聴いている俺は誰なのか。もう、おわかりでしょう。

 

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アーニャでした。

 

「アーニャかわいい養いたい」とか言ってるキショい俺こそが、まぎれもないアーニャそのものだったのです。もう認めるしかない。

アーニャ、げんさんがすき。